ケータイ辞書JLogosロゴ 串木野(中世)


鹿児島県>串木野市

 鎌倉期から見える地名。薩摩国薩摩郡のうち。現在の串木野市の地。ただし,中世においては,現在の串木野市の地は,串木野村・荒川村・羽島浦などの名で現れるので,荒川・羽島を除く分であり,かつ現在の串木野市市街地の中心部は海浜の潟地であったと思われるので,上名を中心とする地帯の呼称であったようである。承久2年8月付の平忠道寄進状に「薩摩国薩万郡内串木野村領主平忠道謹辞・奉寄冠岳新別野霊山寺被暁持当居住之私地壱曲事」とあるのが初見(頂峯院文書/旧記雑録)。これは薩摩六郎忠直の第三子串木野三郎忠道が串木野領主であったことを物語るが,それ以前においては大前氏の支配するところであったようである。寿永2年8月日付で地頭掾大前宿禰が成賀上人を冠岳東谷主職に補任した下文がある(同前)。在庁掾大前氏の管理する時吉名が串木野の地にも及んでいたとみられ,後にかかげる文書にも「薩摩国薩摩郡於時吉名内八十町 此之内串木野入一曲」と現れる。寛元元年9月13日付の平忠茂から子息徳夜叉丸への譲状に「依譲串木野若松名一曲忠経」とあり,これは串木野忠道の流ではなく,薩摩郡司宗家の一族が,串木野に若松名の二次名を持っていたことを示している(末吉羽島氏文書/旧記雑録)。現在,国道3号沿い唐船塚の南に「若松田」があるが,その名残とみてよかろう。南北朝期,串木野氏は串木野城に拠り,南薩平氏(知覧氏)と同盟,南朝方として北朝方島津氏の攻撃を再々受け,串木野氏は敗れて遂に南薩に走った。文和4年11月5日付の島津師久軍忠状に「老父道鑑所領薩摩国櫛木野城郭,宮方大将三条侍従并市来太郎左衛門,鮫島彦次郎,知覧四郎,左当彦次郎入道以下賊徒等,去九月二日当城寄来之間」とある(道鑑公御譜/同前)。これは串木野氏の敗走後,島津貞久が串木野城に入っていたところを,南朝軍が奪回しようと押し寄せたことをいっており,猿渡氏系図の信重,藤三郎に関する記事中にも「永和四年九月三日串木野にて宮方と合戦打死」とある(旧記雑録)。この間貞治2年4月10日付,島津貞久から師久への譲状の中に「串木野村」が見え(師久公御譜/旧記雑録),応永21年9月16日島津久世は,渋谷恕兵衛重増に「薩摩国薩摩郡於時吉名内八十町 此内串木野入一曲」を,河辺郡七島の中島1つなどとともに料所として宛行っている(渋谷恕兵衛重増文書/同前)。これらによれば,室町初期において串木野は総州家島津の支配下にあったらしく,応永年中総州家島津が衰微して後は島津嫡流となった奥州家に属し,15世紀末から16世紀初めは島津一族の川上氏が支配したようである。「樺山玄佐自記」永禄2年の条に「中書様自横川千台隈之城御地頭,串木野を賜わり」とあって,島津義久の弟家久が隈之城兼串木野地頭となり,家久は串木野城にしばらく居城する。天正8年の肥後水俣攻めの時には,「肥後合戦御陣立日記」によって,串木野地頭は「宮原左近将監景温」であったことがわかる(旧記雑録)。慶長4年島津義弘はこの地を義久の娘亀寿に宛行っており,同年2月20日付の義弘知行宛行状には「くしき野村,あら川村,は嶋村」と見えている(島津家文書2/大日古)。なお,南北朝期貞治7年5月28日付の若松忠貞から伊作親忠への田地売券に「さつまのくにさつまこをりのうち,ときよしミやうのうち,くしきのむらのうち,しもへきた五たん,たしりた三反,まとはその一かしよの事」とある(伊作親忠譜/旧記雑録)。現在,串木野市上名の串木野城址の東方,大堂庵墓地付近に小字日置田・田尻田・的場があり,的場は微高地でその一部は串木野市営グラウンドとなっている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461868
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ