ケータイ辞書JLogosロゴ 串良院(中世)


鹿児島県>串良町

 鎌倉期〜戦国期に見える院名。大隅国のうち。建久8年の大隅国図田帳に「串良院九十丁三反二丈」とあるのが初見。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符には「串良院九十丁三段二丈〈九丈三寸四分〉」とあり,当院に9丈3寸4分の石築地役が課されたことがわかる(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。南北朝期には,建武2年10月7日の太政官符に中宮職領の大隅国寄郡内の1つとして見え,島津貞久が預所職に補されている(藤野氏文書/同前)。延文元年8月6日の足利義詮下文(道鑑公御譜/同前),貞治2年4月の島津氏所領注文(藤野氏文書/同前)などに島津氏の所領の1つとして見える。また,延文6年2月24日の島津氏久寄進状では院内の岩広名半分が大慈寺に寄進され(志布志大慈寺文書/同前),その後も岩広(弘)名は大慈寺領として史料に散見する。岩弘は東串良町に属す。戦国期になると,「箕輪日記」に「串良地頭検見崎常陸守」とある(旧記雑録)。また,天正5年2月27日の島津義久寄進状には「大隅国串良院之内岡崎名上園之門」が見え,興国寺に寄進されている(興国寺文書/旧記雑録)。寄進された上園門3町5反については,同年月の島津氏老臣連署坪付によって坪付を知ることができる(義久公御譜/同前)。その他,「長谷場越前自記」「樺山紹剣自記」(旧記雑録)などに散見するが,院を付して見えることは少なく,単に串良とのみある場合が多い。なお,鎌倉後期以降には,院内は南方と北方の2つに分けられ,それぞれに地頭が置かれた。南方地頭として,正中年間から正平9年にかけて津野七郎兵衛尉の名が見える。津野氏は島津氏の一族で,鹿屋院の地頭であったが,北原城を攻め当院の南方の大半を奪取し,南方を防備するために白寒水【しらそうず】に城を築き居城とした。また西方の防備として松崎城も築いている。しかし,この間に鹿屋院は肝付宗兼によって奪還された(串良町誌)。北方地頭については,細山田の下中にある霧島権現社の応永3年12月12日の棟札によって寺師吉兵衛尉宗長が確認される。南方は串良町の下小原の付近に,北方は細山田の付近にそれぞれ比定される。南方・北方とは別に,串良院上条も南北朝期に見え,正平12年4月20日の島津氏久宛行状に「大隅国串良院弁分〈上条〉同立小野村」(氏久公御譜/旧記雑録),応永5年12日25日の田代清久置文に「串良院上条地頭職并弁分」(田代氏文書/同前)とあり,田代氏が地頭となっているが,南方・北方との関連は不詳。院内に小原別符・柏原別符が含まれる。串良町と東串良町の一部に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461881
最終更新日:2009-03-01




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