ケータイ辞書JLogosロゴ 栗野院(中世)


鹿児島県>栗野町

 鎌倉期〜戦国期に見える院名。大隅国のうち。建久8年の大隅国図田帳に「栗野院六十四丁 正宮領 本家八幡 地頭掃部頭」とあるのが初見。大隅正八幡宮領で,本家は山城石清水八幡,当時の地頭は中原親能,64町の内訳は御供田4町・公田60町となっている。次いで建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符では「南里四十丁〈除貢進田一丁五反・定田卅八丁五反〉預所卿法眼」「北里卅四丁〈除貢進田一丁五段・定田卅二丁五段〉弁済使阿波房成幸・名主丹後房」合計74町となっており,南里はさらに米永【よねなが】・恒次【つねつぐ】・重武・恒山・在次【ありつぐ】に区分されている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。この間,建久9年3月12日付の大隅国御家人交名には「栗野郡司守綱」が(大隅宮内社家文書/同前),弘安10年7月日付の宮侍守公神結番次第には「二番 栗野郡司」が見える(調所氏譜祐恒伝/同前)。南北朝期に入って延文4年8月17日,正八幡宮預所が執印法橋宛に「栗野南里当年々貢以下為催促」,預所使者を下すことを報じているが,この頃すでに正八幡宮の御供米徴収は貫徹し得る状況にはなかったらしい。応安3年3月11日付の留守左衛門入道宛正八幡宮長吏法眼朝実御教書によれば,「正八幡宮領帖佐・加治木・吉田・栗野・小河院内散在御供田」は延文年間以来,郷院郡司等が下地を押作し,御供米を弁じないとされている(執印文書/同前)。その後,永享8年閏5月20日,島津貴久(忠国)が「島津御庄大隅方栗野院内」大般若田4町・仁王経田2町2反・仏聖田6反の正宮神領計7町(これらの田地はいずれも南郷・北郷に二等分されている)を沢氏に安堵しているが(忠国公御譜/同前),長禄4年閏9月26日付の正八幡宮神領坪付では「四町〈くりのニあり〉きたさとみなミさと正御供田不知行」とあって(国分宮内沢氏文書/同前),正御供田は不知行とされている。ところで,当地は鎌倉・南北朝期を通じ島津・北原・畠山各氏や菱刈院・牛屎院・日向真幸院など諸勢力の接点にあたっており,度々合戦の舞台となった。観応3年7月には島津道鑑が「引卒薩摩国凶徒并所々悪党等,逐落大隅国隈本城・栗野北里城」しており(道鑑公御譜・調所氏敦恒譜など/同前),応永6年と推定される6月3日付で田代清久に合力を要請した島津元久書状には「来十五日以前於真幸・栗野両所之間,敵方可勢仕之由,其聞候間」とある(田代縫殿助清長文書/同前)。下って文明6年8月頃の行脚僧廻録には「一北原持城,飯野,徳満,馬関田,吉田,吉松,野尻,栗野」と見え(旧記雑録),室町期には大略日向真幸院郡司北原氏の勢力下にあったが,天正年間,飯野城主島津義弘に奪取され,以後,島津氏の支配するところとなった。「栗野由来記」(寛政5年写本,原本および書写した矢野氏については未詳)によれば,島津義弘の弟島津兵庫頭忠平は永禄5年7月5日,大隅住横川城主北原伊勢守を討つために飯野城を出て,栗野川松尾城に入るとあり,天正18年庚寅6月26日,飯野城より松尾城に居城を移し,文禄4年まで6か年余り在城,その間,文禄元年の朝鮮出兵のとき(文禄の役)は,松尾城から出陣したと記されている。栗野院の領域はほぼ江戸期の栗野郷,現在の栗野町域にあたり,建治の石築地役配符に見える南里内の米永・恒次は現在も大字名となっており,北里は北方に比定されている。米永には正八幡宮四所若宮の1つ勝栗神社,北方には栗野北里城跡,木場には松尾城址があり,松尾城址は往時の状態がよく保存されていて史跡公園となっている。その他,栗野町一帯には中世の遺跡が多い。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461929
最終更新日:2009-03-01




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