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- 車町(近世~近代)とは
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車町(近世~近代) 江戸期~昭和42年の町名明治44年~昭和22年の間を除き芝【しば】を冠称寛永11年,増上寺の家康をまつる安国殿普請のため京都の牛持を呼び材木などの運送に従事させたその後四谷木挽【こびき】町・金杉牛の尻・伝馬町・塩町などで営業していたが,寛永16年上高輪【かみたかなわ】の地所4町余を大縄地で受領した北部の一部に直接海に接する町域もあったが,大部分が東海道の往還にのぞむ片側町であった現行の高輪2丁目15~18番の東部はじめ1~4丁目があり,その後4町は一体となり丁目はなくなった寛文2年町奉行支配となる牛町の俗称をもち,「高輪牛町18丁,牛の小便なァがいなァ」の児童の俗諺を生じた明治元年東京府に所属同2年,芝泉岳寺門前・芝如来寺門前を,同5年願生寺・泉岳寺・如来寺の寺地を合併同5年の戸数328・人口1,331,物産には元結・象牙細工などがあった(府志料)同11年芝区に所属同44年芝の冠称を省いて車町となり昭和22年港区に所属,一部が西芝浦1~4丁目の一部となる再び芝車町となる同42年現行の高輪2丁目1・11~12・14・16~17番の各一部と15・18番の全部となる車町河岸があったが昭和10年代に車町の一部として扱われるようになった |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
車町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ江戸期は車ノ町といった杉ノ町筋の北,東西道路魚ノ棚筋西端に位置する堀川の東で材木町筋から桑名町筋までの4丁東は小田原町に隣接する町の歴史は古く,名古屋遷府以前は名古屋村今市場,すなわち郭内天王社前にあったのを,慶長年間現在地へ移転した町というはじめ一丁目町あるいは西一丁目町と呼んでいたが,承応年間天王祭の山車を支配するようになり車ノ町と改称した(尾張志)享保年間の家数35,町役銀1貫66匁(名府予録)町内には真宗高田派至誠院があった(金鱗九十九之塵)氏神は郭内天王社(名古屋府城志)東照祭には警固の衆,御矛持6人と白張5人を隔年で出す(名古屋祭)明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市西区,昭和19年同市栄区,同20年からは同市中区に所属同41年丸の内1~3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
車町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は仙台城下町の1つ明治11年宮城県仙台区に所属同22年からは仙台市の町名東六番丁東裏にあり,北は小田原車通と直通し,南は東七番丁に接している実際は荒町から小田原北一番丁通までを結ぶ南北に長い街路のうち,花京院通から二十人町間現在の国道45号から二十人町間だけをこの名で呼ぶ新寺小路の東秀院はもとこの地にあり,車地蔵が境内にあり,東秀院の移転後も旧地に名称のみ残ったものという(封内風土記)正保絵図に街路は割り出され,職人・足軽屋敷が多く一部侍屋敷が見える安永年間以降の絵図には鉄砲町・元寺小路の街路の西側角と東南角に町屋が記され,さらに安政絵図になると,鉄砲町の街路に面した一区画に「車町分」の記載が見える明治以後も大きな変動はなく,個人商店の並ぶ町である... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」