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- 郡本(中世)とは
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郡本(中世) 鎌倉期~戦国期に見える地名大隅国禰寝【ねじめ】院のうち北俣(現大根占町)・南俣(現根占町)両方に存在建久8年の大隅国図田帳に,正八幡宮領禰寝南俣40町のうちとして佐多10町とともに「郡本三十丁〈疋別廿疋〉元建部清重所知」とあり,建治2年8月日付の石築地役配符には,禰寝南俣41町5反のうちとして佐多10町・田代10町とともに「郡本廿一丁五段内〈除貢進田定 廿丁六段二丈六寸〉」とある(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)この間,正元元年後10月5日付の禰寝院司建部清綱の頼綱への譲状に「一 郡本内水田弐町・薗参ケ所」と見えるが,その水田2町とは円田4反・牟多北副伊佐木田6反・馬門内1町,園3か所とは宮脇1所・脇持教房居園・南入道居園であった(池端文書/旧記雑録)一方,北俣の郡本については図田帳・石築地役配符には見えないが,文永4年3月5日付の「禰寝院 村々置役事」と題した沙弥道意置文に浜田・大姶良【おおあいら】・志々目・横山とともに「郡本 佃御用作四反廿 新加用三反廿 収納使田五反卅 笇失一丁一反卩」とあり,「禰寝院公事支配村々田数参十町」のうち「郡本村八丁五反内〈鳥浜三反 神河五反〉」となっている(志々目家文書)その後,嘉元3年3月15日,藤原胤義と建部清政が沙弥心蓮を証人として禰寝院北俣郡本村弁済使職并田園在家山野狩倉等別分状を作成しているこれは当地内の弁済使用田・神田・堤面新開田・公事田・園・狩倉などの各々を胤義と清政の間で別分したもので,そのなかには石田・馬門・赤尾木・寺前・猿丸・池田・久木田・宮脇・塩屋・勝野・安水・毛下など,現在も大根占【おおねじめ】町南部一帯を中心に残る小地名が見られる(志々目家文書)以後,郡本の地名は「禰寝文書」「志々目家文書」「池端文書」等に多出するが,それらの多くは地内の零細田畠についてのものであり,郡本全体に関する事情をうかがう史料は少ないわずかに「禰寝文書」中には南俣の郡本について「応安五年郡本内北御分水田取帳事」と題した禰寝南俣水田取帳の断簡が残っており,そこには柳田・河内・竹崎・間所・右田・塩入の地名が見えるが,残念ながら断簡であるこのうち河内・右田は根占町川北に遺称地があり,塩入は同町川南に遺称地があるまた,天授3年11月21日付の禰寝院見作田畠目録注進状案には「一 郡本村 拾柒町玖段参杖中 損肆町陸段参杖中」とある当地名は本来普通名詞であったと思われ,公領との関連など不詳の部分が多い |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
郡本(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
郡本(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」