ケータイ辞書JLogosロゴ 郡山(中世)


鹿児島県>郡山町

 鎌倉期から見える地名。薩摩国満家【みついえ】院のうち。郡山名ともいう。延応2年8月22日の比丘尼菩薩房・生阿弥陀仏田地去状に満家院西俣名内の八世井浦の東の堺として「郡山」が見える(比志島文書/旧記雑録)。次に,正応元年6月7日の税所篤秀和与状(同前)に「篤秀重代伝領薩摩国満家院内郡山・中俣以下六箇村」と見える。篤秀は大蔵幸光が承久の乱で没落した後,満家院郡司に補任された税所祐満の子孫で,当時,この6か村をめぐって惣地頭である島津氏と相論を行っており,同文書はこの相論を終結させるための和与状であった。和与の結果,篤秀は守護島津氏に郡司得分米50石,7か所請所小袖3両,厚智寺巻誦用途3貫文,塚田・蒲原を去り渡している。鎌倉末期の元亨2年5月3日の上原基員契約状によれば,郡山は税所氏から上原基員に与えられ安堵されたことが知られる(同前)。南北朝期に入ると,守護島津氏は満家院郡司の税所氏の勢力を圧倒して郡山(大蔵)頼平を郡山城に入れ,南朝方にくみした伊集院忠国の軍に備えさせている(国史)。「加治木氏系図」(地誌備考)によれば,郡山氏は建暦元年4月28日に加治木八郎親平(吉平)が子息恒平に郡山村を譲ったのに始まるというが,同族の満家院司大蔵幸満が承久の乱で没落すると,同じく勢力を失ったと思われ,大蔵幸満の跡に入った税所氏に対抗して院地頭の島津氏の被官になったと考えられる。郡山頼平の守った郡山城は別名松尾城ともいい,郡山町の町役場の裏山にあったと伝えられる。観応元(正平5)年8月18日,伊集院忠国が郡山城を包囲すること3日,比志島貞範,小山田景範父子,吉田清秋等の救援も空しく,郡山頼平は城を放棄している(国史)。この時の戦については,観応元年8月21日の大蔵頼平軍忠状(加治木文書/旧記雑録)や8月21日付の島津道鑑(鑒)書状(比志島文書/旧記雑録)にも見えている。この戦以後,満家院の大半は伊集院氏の支配下にあったようで,応永27年2月3日の伊集院道応(頼久)寄進状では,「薩摩国満家院郡山名之内常葉門付水田一町一反 薗山野田作分ミたらい五反 河山三反 迫田三反 都合二町二反」が道応の重代相伝の所領として円通庵に寄進されている(伊集院円通庵文書/旧記雑録)。宝徳2年に伊集院氏は島津氏に追われ,肥後に走るが,その所領は島津氏の直轄領となる。その後,島津氏10代立久は妻の兄の家老村田肥前守経安を郡山地頭とするが(三国名勝図会),経安は明応4年7月,島津忠昌のため殺される。その後,時期は不明であるが,比志島氏が地頭となる。「比志島系図」によれば,比志島美濃守義信(義方)は明応4年郡山内横瀬・宇都・坂口・満枝等20町を譲得とあり,また,郡山町中福良の稲荷神社の天文14年11月16日の年紀をもつ御正体板面に「地頭比志島美濃守源義住」と記されている(郡山郷土史)。義住の子国守・国義が織豊期に転補されるに至って,郡山は島津氏直轄地の色を濃くしていく。なお,建武2年3月27日の良舜奉書等によれば,上原三郎久基と比志島彦太郎義範の両人を「薩摩国満家院之内郡名・小山田・油須木・東俣并比志嶋」等の年貢請負代官に補任しているが,この「郡名」は郡山のことを指しているのであろうか。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462022
最終更新日:2009-03-01




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