ケータイ辞書JLogosロゴ 佐多村(中世)


鹿児島県>佐多町

 平安末期〜戦国期に見える村名。大隅国禰寝【ねじめ】院南俣のうち。治暦元年正月29日付の藤原頼光所領配分帳案に「一 権大掾頼貞宛給 禰寝院内参村 田代,志天利,佐多,在坪付抄帳」とあるのが初見(禰寝文書)。次いで建久8年の大隅国図田帳では,禰寝南俣40町のうち「佐汰十丁〈丁別廿疋〉賜大将殿御下文建部高清知行之」と見え,鎌倉初期には建部氏(一族佐多氏)の所領となっている。高清の跡は親高が相続したが,親高は譲状を作成せず死去し,ために親高跡は幕府によって子息親綱・宗親および子女に配分された。この配分は佐多町馬籠から北へ延びる山の稜線をもって画されたものらしく,佐多町郡を中心とする半島東部は子女分も含めて惣領親綱に,佐多岬から佐多町伊佐敷に至る半島西部は宗親にそれぞれ配分されたらしい。のちには親綱流に伝領された地を佐多本名(東方とも),宗親流に伝領された地を佐多西方と称している。その他,伊佐敷の東北方,下岩を中心とする一画は佐気岩(佐下岩)あるいは元行名と称して別に伊佐敷氏が伝領したようであるが,その系譜,本名との関係等は未詳。また,佐多町東部の辺塚【へつか】付近一帯は安行名と称されたようであるが,これも多くはわからない。建治2年8月日付の大隅国石築地役配符では禰寝南俣のうち「佐多十丁〈除貢進田六反〉」の内訳は,「本名六丁九段半〈六尺九寸五分〉御家人四郎親綱」「元行五段半〈五寸五分〉御家人弥三郎太夫親房」「安行五段半〈五寸五分〉御家人田代七郎助友」「一丁四反〈一尺四寸〉御家人九郎宗親跡」となっている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。こうして相伝された佐多村であったが,以後,親綱流と宗親流との間で,また,各流内部でも相論がくり返され,鎌倉末期には惣領制的支配も解体し,その後,当地には島津氏の勢力が進入,禰寝南俣惣領禰寝氏との争いが続く。年未詳(永和4年か)7月20日付で,今川了俊は禰寝久清が味方についたことを賞し,佐多村等は「御本領之由」であるから京都に吹挙する旨,久清に伝えており,永徳元年6月1日には久清は島津氏流佐多氏義の拠る佐多城を攻略している。下って,永享7年8月23日,島津忠国は禰寝直清に「佐多十町」を宛行っている(禰寝文書)。当地を拠点とし,佐多を名字に冠した島津氏流佐多氏は,この間も存続していたが,天文19年佐多忠将の時,島津貴久の命で佐多を離れ,以後,当地は禰寝氏の一円支配に帰した(佐多町誌)。なお,「禰寝文書」中には当地内の地名として,松坂園・山口園・浜田・竹原田・湊田・ハこ山・ニタ山・大淀浦・大泊浦・島トマリ・小浦・イカノ浦・ハンキノ原・牛カキノ原などの園名・田地名・山名・浦名・狩場名が見えている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462138
最終更新日:2009-03-01




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