ケータイ辞書JLogosロゴ 志々女村(中世)


鹿児島県>鹿屋市

 鎌倉期〜南北朝期に見える村名。大隅国禰寝【ねじめ】院のうち。藤原姓禰寝氏(富山氏)の一族志々目氏の本領。文永4年3月5日付沙弥道意置文に「志々女 御佃用作三反卩 新加用三反卩 収納使田五反 笇失九反丗卩」「志々女村七丁五反内〈公田分一丁八反卌〉」とある。次いで,元亨2年8月25日付島津荘留守法橋上人某下文で藤原弥義が「大隅方禰寝院志々女村弁済使并寺山別当職」に補任されているが,両職をめぐってはこの直後に一族で係争があった(志々目家文書/鹿大史学14)。その後,暦応元年12月22日付藤原義親定文によれば,「志々女横山両村堺事,自上田橋口以河久木崎尾ハナ大樋口河くたり小山下自萠にとをりて,両村可為堺」と決められており,同3年10月2日には,沙弥道善が「御知行候志々女村を他人に契約」した科によって所持文書をすべて避り渡している。天授3年11月21日付の禰寝院見作田畠目録注進状案では当村の田数9町7反,うち損田2町7反4丈であった(禰寝文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462199
最終更新日:2009-03-01




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