ケータイ辞書JLogosロゴ 志布志(中世)


鹿児島県>志布志町

 鎌倉期から見える地名。日向国救仁院のうち。正和5年11月3日付の沙弥蓮正打渡状に(志布志宝満寺文書/旧記雑録)に「日向方嶋津御庄志布志津大沢水宝満寺敷地四至境事」とあるのを初見として,以後「旧記雑録」に頻出する。建久8年の日向国図田帳には見えず,ここでは島津荘寄郡救仁院90町に含まれ,地頭惟宗(島津)忠久の支配下にあったものであろう。忠久の下司職補任は文治元年8月であるが,当地は平家政権の時から救仁院平八郎成直が地頭弁済使職にあり,舎弟安楽平九郎為成に妨取されていたのを,平家滅亡後,頼朝によって成直に返付された。しかし,その後成直は忠久の下知に従わず,僧侶殺害の科によってその知行は没収され忠久に委ねられている(旧記雑録)。当地は志布志湾に面しており,島津荘の中心都城地区から海へ出る要衝で,軍事上では志布志城が,交通上では志布志津が中世を通じて重要な位置を占め,南北朝・室町・戦国各期の争乱は,救仁院においては志布志城の攻防が中心となった。志布志城については貞和4年6月日付の島津貞久書下に「楡井四郎頼仲,楯籠日向国救仁院内志布志城之間,畠□(山)修理亮罷向」(重久氏文書/旧記雑録),「肝付兼氏譜」に「正平十二年丁酉〈北朝延文二年〉,初畠山直顕取志布志城,城主楡井頼仲蓋奔大崎,拠胡麻崎城」(旧記雑録)などと見えている。志布志城は内城を中心に,松尾城・高城・新城から成っていた。内城は本丸・中ノ久尾・大ノ久尾に分かれた平山城で,松尾城は内城と沢目記通りをへだてる西谷蔵王山と呼ばれる台地上にあり,楡井氏はこの城を本拠としていた。新納氏も当初松尾城に在城したが,城郭の規模は内城よりも小さい。高城は松尾城から西谷をへだてる宇都上台地にあり,新城は町畠方面に対する備えであった。南北朝期の当地には南朝方として高山の肝付兼重,救仁院の楡井頼仲があり,北朝側としては,建武3年畠山直顕が日向に下向,島津貞久・氏久らと抗争しており,正平13年には菊池武光の南征があった。この間興国元年,楡井頼仲は肝付から帝釈寺を志布志に移し,玉山玄提を開山として大慈広慧禅寺(大慈寺)を創建。正平12年2月には頼仲は畠山勢に敗れて大慈寺宝池庵に入り自刃している。畠山直顕が菊池武光に駆逐された後,島津貞久・氏久の大隅経営が志布志を中心として進められた。氏久の志布志入城は,正平20年頃と考えられている。氏久の没後島津元久はしばらく志布志に居城したが,まもなく鹿児島に移り,あとに新納氏が約200年間在城した。この間,肝付氏,豊州家島津氏,都城北郷氏,飫肥伊東氏などの抗争が絶えず,天文7年新納氏は,肝付・豊州家島津・北郷氏の挾撃を受け,ついに志布志城を去った。肝付兼続は,永禄7年志布志を隠居所として移っていたが,同9年この地に没した。天正元年肝付氏は,志布志地頭三河入道竹友を将として,北郷軍と住吉原に戦って大敗し,天正5年肝付氏没落後は,救仁院・救仁郷ともに,島津義久の支配下に入り,志布志地頭として鎌田政近が補任された。文禄検地においては,義久蔵入分10万石の中に含まれ,志布志郷から松山郷を分けて独立させ,その代替地として,救仁郷のうち蓬原【ふつはら】・野神・原田を志布志に併せて近世を迎えた。なお,正和5年の沙弥蓮正打渡状に見える「志布志津」は前川河口部にあったものと考えられ,現在前川河口に関所跡が残る。永和4年2月18日付の大慈寺長老宛島津氏久安堵状には「日向国救仁院志武志関所駄口米事」と見え,文明2年9月4日付の同じく大慈寺長老宛島津立久安堵状にも「日向国救仁院志布志大慈寺為造営関所駄口米事」と見える(志布志大慈寺文書/県史料拾遺)。この文書では関所の設置場所は未詳だが,おそらく飫肥・串間に通ずる夏井か,海上の物資輸送を扼す志布志津口に関所が置かれたのであろう。効果的な駄口米徴収が可能なほど,志布志を中心とする物資輸送は盛んだったのである(志布志町史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462232
最終更新日:2009-03-01




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