ケータイ辞書JLogosロゴ 島間村(近世)


鹿児島県>南種子町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国熊毛郡種子島のうち。東西1里1町29間・南北1里30町,惣廻り5里24町34間。種子島氏の麓西之表西町より午未(南々西)方8里15町30間の所に仮屋があった(種子島方角糺帳)。元禄2年の村高428石余,人口411,うち郷士55。牛馬121。ほかに崎原に種子島氏の直営牧である手牧があり馬155頭がいた。牛野に塩屋があった(懐中島記)。同9年の人家は96軒,うち仮屋元30軒・稲子泊5軒・小平山10軒・古川15軒・浦16軒・田尾15軒・牛野塩屋5軒(種子島方角糺帳)。「天保郷帳」では878石余,「旧高旧領」では485石余。島間浦は種子島18浦の1つで漁業も行われていたが,油久村・坂井村と下之郡の年貢米の収納,輸送港として重要な場所であった(南種子村沿革誌)。天保5年,足軽柳田甚之進が2回当村庄屋となり,甘蔗の栽培を奨励して村民の生活を潤そうとした功績で一世郷士にされた(種子島家譜)。鎮守は島間岬八幡神社で同社は,文政8年本妙寺住職日昌上人が大隅の国分八幡宮を勧請したもの。寺院は法華宗本源寺末寺の本妙寺(寺領高10石)が上方にあり,法華宗に改宗する以前は律宗大光寺と称していた。改宗時の住職は隆錯。毎年10月に大蔵的という鹿を狩って,的を射る行事があった(懐中島記)。本妙寺は排仏毀釈で廃寺となり,跡に豊受神社が建立されたが,後に田尾に復興された。文化7年に島間坊1軒,慶応2年宝屋坊が財政的な理由で毀された(種子島家譜)。明治7年,第73郷校の支校が設置,同11廃校された後に島間小学校が開校した。同12年には,坂井村・西之村を含む3か村を管轄する戸長役場が島間に置かれたが,同14年11月に坂井村が野間戸長役場の管轄になったので,役場も廃止され西之村とともに茎永戸長役場の管轄となった(南種子町郷土誌)。同21年の戸数219・人口1,063(南島回顧録)。同22年南種子村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462241
最終更新日:2009-03-01




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