ケータイ辞書JLogosロゴ 下永吉(中世)


鹿児島県>喜入町

室町期に見える地名薩摩国給黎【きいれ】院のうち「山田聖栄自記」に「久豊(島津氏9代)之御代始ハ敵ヲ巻落,給黎より始る,然ハ和泉殿本領と而下永吉廿町依被給,庶子之給黎方を差置る,上永吉二十町は大寺方・長野左京亮方,其外城衆中に被宛行候」とある(県史料集)建久8年の薩摩国図田帳における「給黎院四十町」が二分されたものであるその後永享6年9月20日沙弥天用寄進状には「給黎院下長吉之内,鈴源兵衛か塩屋」とあり,同11年3月2日付の藤原久景寄進状にも「給黎之下永吉鈴源兵衛塩一所」とある(広済寺文書/旧記雑録)下って,文明5年6月日付の田代清定申状に「義天(久豊)より給候分,田代肥前入道清定,給黎下永吉之内,あれた三町五反ノ門〈しほやニ在〉,すすの門二町〈しほやニ在〉,たうはうノ門一町四反,浮免迫田四反,城ノ下以上七反〈しほや四〉」とある(田代家文書写/県史料集)江戸期の喜入郷下之村,現在の喜入町前之浜・生見にあたる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462294
最終更新日:2009-03-01




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