ケータイ辞書JLogosロゴ 下名村(近世)


鹿児島県>野田町

 江戸期〜明治22年の村名。薩摩国出水郡野田郷のうち。なお,明暦3年以前は出水郷のうち。山門院野田村里記帳によれば,元禄11年の窯数191(そのうち郷士73)。村高は,「旧高旧領」では,2,746石余。郷士は本町付近に集住しており,庄屋所は中央部の中郡【なつぐり】にあった。東部の野田川左岸にはやや広く水田が広がり,西部は出水台地に連なる黒土質で茶・煙草の栽培に適している。寺社には,出水地方最古の天台宗山内寺,建久5年創建と伝えられ足利将軍の十刹の御教書を代々賜い,かつ島津氏始祖忠久以下5代の菩提寺であった臨済宗感応寺,同寺末の同宗極楽寺,熊野権現社,祇園牛頭天王社,稲荷大明神社などがある(三国名勝図会)。山内寺は地内中郡,熊野神社正門大鳥居周辺がその跡地と伝える。天保12年の「山内寺由緒帳」によれば,往時は西光寺と称し性空の開山,天台宗比叡山末寺で南九州の本山であった。建久7年島津忠久が山門院に入り,木牟礼城を居城とし知行8町を与えて祈願寺としたとある。だが史料では室町期の応永13年6月28日付山内寺院主某譲状に「薩州山門院山内寺院主職田畠等事」とあるのが初見で,その四至は東が「馬場大道」,南が「新御堂堀」,西が「田潦堀大道」,北が「陳之内堀東殿堀」とされている(野田山内寺文書/旧記雑録)。以後はほとんど記録がなく,永禄の頃,薩州家の6代義虎が祈願寺を出水成願寺としてから衰微,明治3年の排仏毀釈を迎えた。また感応寺は地内感応寺馬場にあり,寺伝によると「薩摩国最初の禅林,本願大檀那忠久公草創之地也,忠久公受封於薩隅日三州,建久年中始下国,家老本田貞親予下薩州山門院,創建当寺称鎮国山感応寺,再興大檀那道鑑公」とある。史料による初見は,南北朝期の康永3年に入寂した住僧雲山和尚僧讃に「鎮国山感応寺廼本州最初法窟也,暦応第二之年本州刺史藤原朝臣嶋津公上京謁見 大将軍尊氏殿下,殿下喜色之余,問公曰,公之国今有緇林之可興礼楽者否,答言,有也」とあり,同寺創建の古さが分かる(道鑑公御譜中/旧記雑録)。「感応寺文書」には貞治3年5月15日付の足利義詮の祖通西堂に対する公帖,応永17年12月11日付の総州家島津久世の宛行状等,10数通の中世文書が残されている。戦国期には薩州家島津と相良氏,天草氏などとの和平交渉などに,感応寺住僧が使者となって先方へ赴き,あるいは使者を迎えて折衝に当たっている。「県地誌」によれば,戸数292(士族86・平民200・寺社家6),人口1,153(士族338・平民815),牛51・馬150。物産としては米・麦・粟・大豆・蕎麦・甘藷・実綿・麻・繭・生糸・茶・煙草などがある。明治22年野田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462309
最終更新日:2009-03-01




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