ケータイ辞書JLogosロゴ 城前田(中世)


鹿児島県>郡山町

鎌倉期から見える地名薩摩国満家【みついえ】院のうち城前田名ともいう川田川下流域に位置する天福元年10月2日の僧智弘・僧実範・紀道房連署契約状に「満家院内比志嶋・西俣・城前田・上原薗〈但八郎入道屋敷也〉……河田村」と見える(比志島文書/旧記雑録)この比志島・西俣・河田・城前田・上原園の5か所には何人かのものが権利を有していたようであるが,比志島氏の祖である上総法橋房(栄尊)が寛元2年12月11日に当知行安堵の関東御教書を下されている(同前)また,寛元5年3月11日には本主である母比丘尼菩薩房が先の関東御教書の旨にそって5か所の名主職を栄尊に譲り与え(同前),宝治元年8月11日には満家院預所・地頭である守護島津忠時は同職を安堵している(同前)建長5年7月10日には栄尊は譲状を作成して嫡子比志島佐範に比志島・河田・西俣・城前田・上原園の5か所の惣領職を譲り渡し,他の子息は各名の代官としている河田名代官は宮次郎(三男盛資),西俣名代官は弥三郎守忠,城前田・河田内孫江田元明屋敷代官は乙次郎である(同前)この譲状は正嘉元年8月22日の預所,地頭島津忠時安堵状によって安堵された(同前)文永11年の蒙古襲来の後,鎌倉幕府は防備のため,西国御家人に石築地役を課すが,建治3年正月27日には比志島佐範にも比志島・西俣・河田・前田の4名分,5丈1尺4寸の築地役が命じられている(同前)この前田は城前田のことか,あるいは,その一部を指したとみられるが,城前田の代官乙次郎は後に前田又四郎入道栄秀と名乗るその後,前田は満家院地頭の守護島津氏に押領されたらしく,正和元年6月10日の僧栄秀請文に「至于前田者,守護方押領之間」とある(同前)それに対して,元亨3年の薩摩国比志島孫太郎忠範代義範重言上状では,比志島忠範とその子息義範がその不法を訴えているが,鎌倉末期には前田の実質上の支配権は比志島一族の手を離れ島津氏に帰したとみられるしかし,応安7年,応永32年,永享4年,文安3年と残る比志島惣領家の譲状には,城前田の名が一貫して見える(同前)また,前田氏はその後も比志島一族として活躍している郡山町川田字前田および城を含む一帯に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462332
最終更新日:2009-03-01




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