ケータイ辞書JLogosロゴ 多田名(中世)


鹿児島県>阿久根市

 鎌倉期〜室町期に見える名田名。薩摩国山門【やまと】院のうち。弘安11年5月21日付の別府・多田両名主代行蓮請文に「つねみのれいりようのめむてんの事,やまとのゐんのつのりあし七石五斗のうち,へふ・たゝのふん,そうりやうのきりふにまかせて,八ふん一のそたうまい,いちねんのふん九斗三升七合五勺にあひあたり候」とあるのが初見(水引執引文書/旧記雑録)。次いで南北朝期の文和年間と推定される2月23日付の東郷左京亮宛島津師久書状に「凶徒莫禰彦太郎入道成因跡〈除散在知行分〉,山門院之内多田名々主職・同宮里郷内長崎寺并莫禰院〈除遠矢入道知行分〉事」とある(師久公御譜/同前)。下って文明2年2月15日には「山門院多田之内水田三段」を島津国久が感応寺金竜院へ寄進しており,同年坪久田嘉紹も「山門院多田之内八町作水田壱段代四百地」を同じく感応寺金井軒に寄進している(感応寺文書/同前)。多田の地は中世初期山門秀の三女虎王女が莫禰成友に嫁す際持参した所領といい(阿久根市誌),また,地内には応永の頃坪久田土佐良兼が拠ったという大下城(地主城とも)址,南北朝期の肥後菊池氏の陣跡という陣之尾・陣之平の地名がある(三国名勝図会)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462578
最終更新日:2009-03-01




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