ケータイ辞書JLogosロゴ 田布施郷(中世)


鹿児島県>金峰町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。薩摩国阿多郡のうち。嘉元3年6月阿多郡南方地頭鮫島光家申状によれば,建久3年8月25日阿多郡地頭職を与えられた鮫島宗家は,同郡を二分して北方を嫡子家高に,南方を宗景に譲ったが,北方地頭家高は新田八幡宮領に対する非法のため,宝治元年10月25日関東下知状によって改易され,同職は二階堂行久に与えられた。延慶2年1月6日二階堂行久娘忍照置文によれば,「以薩摩国阿多郡北方田布施・高橋両郷,譲与得分親等間事」とあって,田布施郷は惣領泰行に譲られ,その死去後は子息等に分譲されたとあり,高橋郷は庶子等に譲られた。また忍照は正和3年2月28日置文で,高橋郷分担の幕府御所用途は庶子知行の分限に応じて惣領に弁ずるよう指示したが,庶子定氏が従わなかったので,泰行の子行雄の訴えにより元徳元年12月25日鎮西下知状によってその所領は行雄に付与された。南北朝期二階堂氏はおおむね武家方として戦い,行雄は建武4年3月7日足利直義下文によって「阿多郡田布施郷半分」を安堵された。建武5年9月2日行雄譲状によれば,「一所薩摩国阿多郡北方田布施郷,同高橋路余利北分」が行仲に与えられた(阿多郡史料)。室町初期応永13年島津元久は二階堂氏を放逐して,同年7月16日「阿多郡北方多布施之内,除五代・高橋」を伊作氏に与えた。同28年3月15日大寺元幸等連署契状によれば,「田布施之事一円に被去給候上者,依今度之儀,屋形(島津久豊)の所存一切不可相残候」とあり,守護久豊に敵対した伊作氏は田布施を返上して和を講じた(伊作譜/旧記雑録)。文明6年行脚僧雑録によれば,田布施は相州家島津運久の所領となっており(旧記雑録),さらに文亀元年運久の養子となった伊作家島津忠良(日新)に継承され,島津本宗家の所領となった。なお,応永22年1月7日付の二階堂行隆寄進状に「多布施之城,来十一日ふみしつめ候者,此際神領之上に一丁寄進可申也」とあるが,この「多布施之城」は池辺城(牟礼ケ城)のことであろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462611
最終更新日:2009-03-01




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