ケータイ辞書JLogosロゴ 反土村(近世)


鹿児島県>加治木町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国始羅郡加治木郷のうち。村高は,文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印知行方目録では太閤蔵入分として1,373石6斗4升7合(島津家文書2/大日古),寛文4年「郡村高辻帳」「天保郷帳」ではともに1,373石余,「旧高旧領」では2,674石余。なお,安永7年「三州御治世要覧」では3,268石余,元禄12年当時の庄屋は園田藤兵衛(加治木郷土誌)。「加治木古今雑撰」によれば,宝暦年間の門数91。江戸初期隠居した島津義弘が加治木城に居住し,城下に麓,網掛川河口付近に加治木浦をつくった。なお同城は寛永8年以降,加治木郷を領する加治木島津氏の仮屋(屋形)となる。その南塹には擬宝珠橋が掛けられていた。麓に続く南部には野町的な町場が形成され,交通の要衝であることも影響して,流通・経済の一中心地となる。のちの天保9年「薩摩国御巡検使上書」によれば,毎月5・9の日に六斎市が立った(県史)。また,加治木港は往古より海外貿易が盛んで,そのことは同町場のうち今新町で天正年間〜寛永13年まで私鋳銭(加治木銭)を鋳造する銭屋市【まち】があったことでもわかる。網掛川には板橋(網掛橋)が架けられ,同川河口沖には三本の木からなる澪標があった。中世加治木氏が国分正八幡宮神馬検校を勤めた関係で神馬屋敷が置かれたが,その後江戸期になると,「松齢公(島津義弘)の御時本城(加治木城)内に移し玉ふ,其後検校の職は木田村の某任しけるに世嗣なく,其聟領主の臣竪山氏是に任ぜしが,今は宮内社人本城内に居住して神馬を挌護せり,検校の名御馬所役とも云ふ,旧の神馬屋敷今に検校の家支配す。其神会の時に神馬を率行けるは松齢公御代までは士より勤しに,今は段土村田中門の農民勤るとそ,俗に御中間役といふ,年中正月元日,八月十五日の神事,及び八月朔日ごとに神馬往けり」という(三国名勝図会)。物産としては,「森下」というタバコや,加治木紙(天神馬場紙)などが名品。寺社には,慶長10年島津義久が春日社を再興する際別当寺として創建したという真言宗春日寺,同宗普門院,同宗正観院,儒僧南浦文之の墓がある臨済宗安国寺,当村内の萩原寺を天正11年移転改号した同宗椿窓寺,慶長16年の建立という浄土宗本誓寺,口町の大日堂,毘沙門町の毘沙門堂,元和年間義弘の再興という天満大自在天神宮,この天満社に東接する新田大明神社,諏方大明神社,山元権現社,稲荷社,二宝荒神社,愛宕神社,市早大明神社などがある(同前)。明治4年,当村のうち南西部の町場が加治木町として分立する。明治14年「姶良桑原囎唹郡役所管内一覧」によれば,戸数536・人口2,458(士族1,710・平民749),柳田に日木山村をも管轄する戸長役場が置かれ,学校としては明治10年設立の柁城小学校(生徒数男420・女62),同14年設立の柁城中学校(生徒数男25・女2)がある。明治22年加治木村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462631
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ