ケータイ辞書JLogosロゴ 知覧院(中世)


鹿児島県>知覧町

 鎌倉期〜室町期に見える院名。薩摩国のうち。智覧院・知覧見院とも書き,「ちらみのいん」ともいう。建久8年の薩摩国図田帳によれば,「智覧院」40町のうち,府領社(開聞宮領)9町7反下司次郎忠益,公領(島津荘寄郡)30町3反院司次郎忠益,地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)とある。府領社は当時開聞中宮大明神と呼ばれ,現在知覧町郡に鎮座する豊玉姫神社の前身である。忠益は,当時薩摩半島を中心に勢力をはっていた薩摩平氏の一族で,その子孫は代々郡司(院司)職をもって領知し,鎌倉末期から南北朝期にかけては忠世・忠元の活動が知られている。一方,地頭職は忠久から次男忠綱(越前島津家祖)の庶流に伝えられ,忠世と同時期には忠直・久直の名が知られている。元亨4年3月8日平忠世和与状によれば,郡司忠世と地頭忠直との間には,「知覧院鎮守開聞中宮大明神御神領,并公領内所々別府,及惣院内狩牧馬」に関して相論が生じたが,それぞれの一円知行地を定めて和解した(智覧系譜/旧記雑録)。南北朝内乱期郡司知覧氏は宮方として,地頭知覧氏は武家方にあって戦ったが,いずれも室町初期には知覧での活動は見られなくなった。文和2年5月11日足利尊氏下文によれば,島津氏4代忠宗の三男忠光(佐多氏初代)は「智覧院郡司四郎忠世跡」を勲功賞として与えられた(佐多氏元祖忠光譜/同前)。この時直ちにその知行が実現したかは疑問であるが,後に佐多氏が知覧の領主化する契機はここにあった。室町初期知覧は,島津氏庶流伊集院氏の一族今給黎久俊が押領し島津氏に抗していたが,応永27年守護島津久豊はこれを降し,知覧は佐多氏由緒の地であるとして,4代親久に知覧上之木場20町を与えた(山田聖栄自記/県史料集)。これ以後おおむね知覧は佐多氏の所領となった。天正19年佐多氏11代久慶は,その一族の家人が豊臣秀吉の下した倭寇禁止令をおかしたので,島津義弘の怒りにふれて宮村に転封された。文禄4年太閤検地に伴う所替によって知覧は種子島久時の所領となったが,慶長4年久時は本領に復し,知覧はまた島津氏の直轄領となった。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462653
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ