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- 土橋(中世)とは
「土橋(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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土橋(中世) 戦国期に見える地名越前国大野郡のうち文明7年4月10日の夜東軍方の越前守護斯波義敏は大野郡佐開より出て,西軍方の「土橋ノ城」へ入ったので,西軍方の朝倉孝景は義敏が同城より出るように調略したとある(朝倉家記所収文書)また孝景(文明13年没)の書状に「土橋洞雲寺長老」の帰国を承認した旨が見えているが,当時洞雲寺は亀山もしくは野口にあったとされているから,これによって土橋のおおよその位置を知りうる(洞雲寺文書/大野市史社寺文書編)永正元年12月25日の宝慶寺寺領目録には「土橋散田」「土橋畠〈堀内・漆畠〉」「宝慶寺末寺土橋真善庵」がある(宝慶寺文書/同前)天正元年11月に土橋城を本拠とする朝倉景鏡は織田信長より土橋と改名されたとあり,天正2年2月にこの景鏡を討つため平泉寺を攻撃した越前一向一揆勢のうち専修寺は「土橋村」の近くに陣取ったと記されている(朝倉始末記)なお近世においても,元禄8年9月3日の誓念寺蔵親鸞縁起裏書に「大野郡猪野辺□土橋寺町中津川誓念寺」と遺称を用いることがあった(誓念寺文書/大野市史社寺文書編)土橋の正確な範囲は知りがたいが,土橋城(亥山【いやま】城)跡を含む,現在の大野市市街地中・南部と推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
土橋(中世) 南北朝期に見える地名筑後国上妻郡のうち永和3年4月日の広峰某軍忠状(広峰神社文書/姫路市史1)に,同年広峰某は「渡筑後河,高良山・谷河・今福・土橋・山鹿御陣」に供奉したとある九州探題今川了俊の下で後征西将軍良成方と戦ったものである現在の八女【やめ】市街地の中心本町土橋に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
土橋(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」