ケータイ辞書JLogosロゴ 寺脇(中世)


鹿児島県>伊集院町

 鎌倉期から見える地名。薩摩国伊集院のうち。建久8年の薩摩国図田帳に伊集院のうちとして「寺脇八町〈同(島津)御庄論〉万得〈名主在庁道友〉」とある。「名主在庁道友」とは薩摩国在庁官人の大前道友を指す。また,鎌倉末期のものと推定される伊集院分造宇佐宮用途支配注文には「寺脇 参拾陸疋 米捌斗参合伍夕」と見える(島津家文書3/大日古)。鎌倉末期から室町期にかけての正和3年3月15日付沙弥某書下・建武2年11月27日付伊集院助久書下・文和3年3月15日付沙弥某書下などによれば,「伊集院寺脇内円福寺阿弥陀堂」に対し「薗壱所并小山下田三段」などの苧桑代地利物などを奉免されているが(広済寺文書/旧記雑録),「小山下田」は現在伊集院町寺脇に小字「小山ノ下」として残存している。円福寺は山号を横手山と称し,寺脇の小字横手にあって,その墓地には伊集院忠国夫妻の墓がある。正長2年8月22日住定山桃隠定書によれば,当寺は開山和尚が広済寺開基の伊集院忠国七男南仲景周に譲ったと伝えるが(同前),「伊集院由緒記」には弘安元年9月15日付紀時継・時持寄進状が当寺に存したと見えることからすれば(県史料拾遺),その創建は鎌倉中期以前に溯り得,寺脇の地名も円福寺の存在にちなむものかとも考えられる(伊集院郷土史)。また,応永11年8月22日付伊集院頼久・為久連署寄進状にも広済寺領として「寺脇弐町」が記されている(広済寺文書/旧記雑録)。戦国期,宝徳2年に島津伊集院氏が没落すると,当地も島津本家の直轄地となった。永正11年12月15日付伊集院諏訪祭礼番帳には「七番……寺脇名」とあって,当地が伊集院麓の諏訪神社(南方神社)の祭礼を負担せしめられている(伊集院由緒記/県史料拾遺)。なお,天文20年7月10日付島津貴久寄進状に「伊集院寺脇名之内宣徳寺同寺領五町」の替地として「妙谷寺・霊徳寺・善勝寺」を寄進する旨が見える(同前)。同寺は市来の竜雲寺末寺で寺脇村梨子木に存したと伝えられる(同前)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462706
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ