ケータイ辞書JLogosロゴ 中津河名(中世)


鹿児島県>薩摩町

 平安末期〜室町期に見える名田名。中津川とも書く。薩摩国祁答【けどう】院のうち。康治元年3月1日の大前道助譲状案に「薩摩国祁答院中津河名」と見え,重代相伝所領として道助から孫の師道に譲与されている(新田八幡宮観樹院文書/入来文書)。この頃には当地は祁答院領主の大前【おおくま】氏の支配下にあったが,その後,宮之城渋谷家から経重が入り,中津川城(現薩摩町中津川字南方)の城主となり,中津川氏の始祖となった(薩摩町郷土史)。鎌倉期には文保元年10月11日,「祁答院内中津河村次第証文等」が沙弥円仏から道海に譲られている(権執印文書/旧記雑録)。南北朝期の貞和4年6月14日には平(渋谷)重職から「祁答院内中津河参分壱」が王寿丸に譲与され(泰長院文書/大日料6-12),応永7年12月21日には「中津川名」が渋谷重茂から「清敷殿」に避渡されている(入来文書)。「文明記」文明17年9月5日条に島津忠昌の祁答院氏討伐の様子を「都合其勢三千余騎ニ而陣を取而,黒木・中津川・敷部其外所々を放火し……」と述べる(旧記雑録)。当地内の小地名としては,永享3年3月日付の大隅国留守所下文に「中津河 宮永大渾三段六疋 内志上岐田一段二疋 内古家三段六疋 貞次二牟礼一反二疋 重富上津山二段四疋」が見え(調所氏文書恒房伝/旧記雑録),また文明5年10月18日坪付注文帳に「一宮内少輔方〈中津川〉かゝり用作 二反 舟津田竹のした 一反 くほたのうへ」が見える(入来文書)。先の大隅国留守所下文で,当地が祁答院から離れ大隅国として扱われている点に注意される。文禄4年,都城の北郷時久が祁答院に移封された際,中津河の石高は北郷長千代分1,025石3斗5升6合6夕,北郷久次郎分1,152石8斗8升5合,合計2,178石2斗4升1合6夕となっている(御秘文雑集)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462824
最終更新日:2009-03-01




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