ケータイ辞書JLogosロゴ 永野(中世)


鹿児島県>薩摩町

 南北朝期から見える地名。薩摩国祁答【けどう】院のうち。暦応4年7月日付渋谷千代童丸代信政申状によれば「千代童丸所領薩摩国祁答院太郎丸名長野宿所」に渋谷石見権守重棟子息弥四郎重春らが押寄せ放火狼藉に及んだため,千代童丸は薩摩守護島津貞久(道鑑)に出訴している(道鑑公御譜/旧記雑録)。「長野宿所」とは現在薩摩町長野に城址のある長野城と思われ,当地は鎌倉期の宝治2年に相模国渋谷荘荘司渋谷光重の四男大谷四郎重諸(重茂)の次男為重が下向して以来,一族の所領となったといわれる(日本城郭大系18)。その後,当地は祁答院氏の支配するところとなり,室町末期の寛正5年平(祁答院)徳重覚書にも徳重の手によって「如此はしめて,……長野まで算田仕候」と検田が行われている(国分士山崎盛右衛門文書/旧記雑録)。戦国期には,永禄12年5月25日島津義久が祁答院重良のたてこもる長野城を攻撃したことが,永禄12年閏5月17日の島津貴久書状や「長谷場越前自記」「箕輪伊賀入道覚書」「島津国史」などに見える(旧記雑録)。その後,「上井覚兼日記」天正4年8月18日条に島津忠長・同家久の手勢中に当地の衆を記し,天正8年の肥後合戦陣立日記には島津氏に従った「諸地頭衆」として「長野 遠矢信濃殿〈良時,金次郎祖〉」が記載されている(旧記雑録)。文禄4年,都城の北郷時久が祁答院地方に移封された時,長野の石高は731石2斗5升9合6夕であった(御秘文雑集)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462850
最終更新日:2009-03-01




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