ケータイ辞書JLogosロゴ 永野村(近世)


鹿児島県>薩摩町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国菱刈郡曽木郷のうち。ただし,同郷のうち当村のみ薩摩国伊佐郡祁答院に属す。慶長5年市成を領す豊州島津久賀が島津義弘から当村以下1,000石余の采地を加増され,やがて当村に移り住んだが,寛永10年もとの領地である黒木郷(黒木村1か村)に転封され,当村は再び藩直轄地となり,のち地頭が補任された(薩摩町郷土史)。享保13年「大御支配次第帳」では,高885石余で「外薩州江除」として大隅国からはずされている。また,村高は「天保郷帳」では731石余,「旧高旧領」では1,296石余。東部山間の長野金山について,「三国名勝図会」の横川郷の項に「大隅薩摩両州の界にして,東は当郷上之村に属し,西は薩州伊佐郡長野村に係る……当山は寛永十七年始めて金脈あるを知り,大府の許可を蒙り,周廻三里二拾余町を定て金山と号【な】つけ,東西に出入口あり,番所を置て出入の人を検す,東を山ケ野口屋,西を長野口屋といふ,初め金苗の出しは長野村なり,因て長野金山と呼び,後に出しは上之村なり是を山ケ野金山と呼ぶ,官衙を所置なり……凡竈戸三百許にして多くは陶金戸なり,人口一千にも及べども自他州の出入日々増減ありて一定せず,家ごとに沙金製法の器を設け男女其産業を勉て怠らず」と見える。この金山開発が藩財政と地域の発展に果たした役割は甚大であり,最盛時の鉱山関係者は1万2,000余人ともいわれる。また,鉱山開発の比重が大であったため,曽木郷内でも長野地頭が別置され,藩直轄支配を強めたともいう(薩摩町郷土史)。寺社には,臨済宗安養院,中岳東部の岩穴薬師などがある(三国名勝図会)。明治2年からは菱刈郡太良郷のうち。なお,明治20年からは南伊佐郡に属す。「県地誌」によれば,戸数313・人口1,663(士族1,008・平民655),牛264・馬393,瀑布1(西部の平窪滝),小学校は中央部にあり生徒数男50,物産としては米・糯米・大麦・小麦・裸麦・粟・大豆・蕎麦・甘藷・実綿・麻・茶など。明治22年当村は単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462851
最終更新日:2009-03-01




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