ケータイ辞書JLogosロゴ 中名村(近世)


鹿児島県>鹿屋市

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国肝属郡鹿屋郷のうち。中之村ともいう。「諸郷村並浦附」「薩藩政要録」「旧高旧領」「地理纂考」には中名村,「元禄郷帳」「天保郷帳」「三国名勝図会」では中之村と見える。「鹿屋名勝志」には「先年者中之村と相唱候由申伝候,何年簡より当分の中名村に相成候儀前条同断相知不申候」とある。村高は,「天保郷帳」では2,469石余,「旧高旧領」では4,196石余。正保2年鹿屋郷は鹿児島藩直轄領となり村内の古前城に地頭仮屋が置かれた。打馬・古前城は麓集落で,明治維新後は,古前城を中心に役場・税務署・裁判所・警察署・郵便局などの行政機関が上級郷士宅に置かれたが,明治中期以降は打馬南隣の川原堺田(こらけだ)の湿地に次第に移り大手町が形成された。野町は藩政期の商業地区で,鹿児島藩御用酒桜川は当町木下屋で醸造された。和田新田川(溝)は,現井堰より少し下流の和田川原(わだごら)から取水し,肝属川左岸の集落の下を流れて新村(現新川町)を経,川北(現吾平【あいら】町)に至る全長1.5里の用水路で,水路沿いの水神に見える最古の年号は川東上住(現上重)の享保21年である。旧暦8月28日には新田筋の各集落から水神祭に奉納する踊りが和田川原の洗堰に繰り込み,特に川東の「くろおどり」は注目される(鹿屋郷土誌)。鹿屋郷の菩提所である曹洞宗安養寺は姶良郡清水楞厳寺の末寺で慶長2年島津久信が鹿屋移封の時開山させ,相模守久信(さがんさあ)の墓所があった。元禄8年には島津19代光久の位牌安置所となり所領50石を受け大隅地方屈指の伽藍として知られた。明治2年廃寺となったが,同29年に再建されている(鹿屋郷土誌)。真言宗医王院は本府大乗院の末寺で,当郷の祈願所であった。飛地の永尾は麓郷士の共有地で,打馬から移住したもの。明治22年鹿屋村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462878
最終更新日:2009-03-01




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