ケータイ辞書JLogosロゴ 南部村(中世)


鹿児島県>樋脇町

鎌倉期から見える村名薩摩国入来【いりき】院のうち塔原に属し,室町以降は「なへの門」ともいわれる応長2年6月17日の武光法忍(師兼)譲状に所見(入来文書)「入来院塔原内南部村并弥毛原村」の両村は法忍から惣領の経兼に一期分として譲られ,経兼一期の後は三郎太郎兼長へ譲られることになっていた南北朝期に入ると,武光氏の所領は失われたようで,貞和2年6月3日の渋谷重広譲状によれば,寺尾(渋谷)氏の重広が「なへの五郎二郎かさいけ三う」を所持しており,子息の「くまわう」に譲っている(同前)その後,寺尾氏は,内乱の中で没落し,その跡は入来院(渋谷)氏の惣領系の支配地となる当村も入来院の惣領渋谷重門の所領となり,建徳2年10月15日には重門の女子長王に一期分として与えられている(同前)戦国期に入ると,当地は,「なへの門」として山之手手持分帳に記載され,入来院家の直轄在家として把握されていたことが知られる同門の規模は水田4町2反,畠1町1反という大規模な土豪的門であった(同前)また,文亀元年・永禄13年の年号のある某手日記にも見え,当時は入来院氏の一族の下村氏の知行地となっていたようである(同前)現在の樋脇町塔之原の字鍋原・鍋下付近に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7462910
最終更新日:2009-03-01




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