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- 西田町(近世~とは
「西田町(近世~」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 西田町(近世~近代) 江戸期~昭和32年の町名江戸期は大聖寺【だいしようじ】城下町のうち明治5年石川県に所属同22年からは大聖寺町の町名大聖寺城下の南西部に連なる丘陵北麓に位置する江戸期は足軽町の一画を形成享保14年の大火に類焼した際,「御算用場日記」に「田町」とあるように,江戸中期までは1町で,のち東・西田町に分町したと推定される天明6年「大聖寺絵図」の家数17,うち平士5・徒士2・足軽2,ほかは地子地「天保年中大聖寺城下絵図」の家数20,平士の居宅はなく,足軽・小人などの居住する地域であった幕末の侍帳にも町名は見えない(県史)昭和9年の大聖寺大火で地内北側が全焼同11年罹災地跡に熊坂川改修工事により新熊坂川が掘削隣接の五徳町は,大半が同川の河川用地となり,残余は当町に編入された河畔の桜並木は桜の名所となっているまた,当地は大聖寺の鎮守加賀神明宮(旧山下神社)の表参道筋に当たり,「お神明下」とも通称され,春・秋の例祭には露店が並び,多くの参詣人を集めている同33年加賀市大聖寺神明町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西田町(近世~近代) 江戸期~現在の町名仏光寺通猪熊西入の町寛永14年洛中絵図に現町名が見え,「ただ町」とも称した(京雀)町の中央付近を南北に黒門通が走り,仏光寺通と交差するまた町の北側東端には伊勢・春日・八幡の三神を祀る天道神社が鎮座同社は延暦13年に乙訓【おとくに】郡長岡より三条坊門東洞院に遷座したと伝え,数回の兵火を経て,天正2年に当地に移り,天明8年の大火に炎上(坊目誌)江戸期は9月21日に神事が行われた(宝暦町鑑)江戸初期には「この町の西は大宮通也それより西はみな是田畠なり」(京雀)という景観であった江戸期は川西九町組の四条大宮組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】7番組,同5年第9区と改称,同25年第9学区に編成明治12年下京区西田町,同22年京都市下京区西田町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)39.9%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西田町(近世~近代) 江戸期~昭和18年の町名・大字名江戸期は美濃国安八【あんぱち】郡,大垣城下町の1つもと南寺内【みなみじない】村のうちで,町名は田町の西に接することに由来する(新修大垣市史)城下町の東南部に位置し,足軽が居住(大垣市史)明治6年からは大垣西田町と称し,同22年からは大垣町の大字,大正7年からは大垣市の町名となる明治8年の地坪1,177坪同33年の戸数13大正14年の地坪991坪昭和3年の戸数15・人口66(新修大垣市史)同18年寺内町3丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西田町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は岡山城下の1町,武家地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名田町が西田町・東田町・下田町などに分かれて成立池田忠雄が入国すると彼の旧領淡路国から随従してきた家臣が当地に居住,淡路町と呼ばれたこの淡路町は当町域にあたる昭和7年の戸数42,人口234うち男103・女131(旧岡山市史6)同39年田町1~2丁目・平和町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」