ケータイ辞書JLogosロゴ 延時名(中世)


鹿児島県>川内市

鎌倉期〜南北朝期に見える名田名薩摩国薩摩郡のうち「新田神社文書」寛元元年8月10日付の五大院迎阿の譲状の中に,次男師久に譲られた分として本免2町6反があり,その内訳として「二反延時」とあるのが初見(水引執印文書/旧記雑録)次いで,文永元年10月10日付の沙弥見仏から子息種忠への譲状に「一所さつまこおりのうち のふときのミやうてん かわらだのむら」とある(延時氏文書/同前)瓦田村とは川内市隈之城町隈之城小学校付近に「川良田」という小字が現存しているから,この付近であろうなお,正安4年8月4日付の在国司道雄代道弘和与状に「薩摩郡延時名内真弓町御霊田上山本,中山本以上肆町公事等事」とある現在「山本」という小字が小字川良田の近くにある正安4年8月28日博多石築地役覆勘状には「三丈二尺延時名分」とあり,南北朝末期においては至徳4年5月4日付で宮内大輔三雄から延時筑前守が「薩摩郡内延時名地頭職并庶子山地,本若松名,串木野若松,橋間,寄田,火同丸,同成岡名地頭職成岡村等事知行不可有相違」との安堵状を得ている(同前)延時氏はこの時点では,薩摩郡においての薩摩平氏領(成枝・若松・成岡等)を併有していたように見えるが,この文書を下限として延時名は現れなくなる延時氏は大蔵氏の系統で,大蔵種明―見仏と続き,見仏の代から延時を称し,見仏―種忠と続き,種忠の後は成岡氏(平忠恒―忠俊―覚念―忠種)から忠種が入って継いだとみられている南北朝末期,薩摩平氏一族はおおむね没落するが,延時氏のみが隈之城の地で余勢を保っていたかにみえるしかし,室町期に入ると延時氏も振るわず,したがって延時名の名も消失したようである
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463025
最終更新日:2009-03-01




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