ケータイ辞書JLogosロゴ 波留村(近世)


鹿児島県>阿久根市

 江戸期〜明治22年の村名。薩摩国出水郡阿久根郷のうち。江戸初期の村高は482石余,波留・高松・浜屋敷が主な集落(旧記雑録)。文化6年の村高1,696石余,門数42(阿久根市誌)。「旧高旧領」では1,755石余。元禄3年山下村にあった地頭仮屋が主要役人18戸とともに,小牟田・高松付近に移転して新たな麓(城下)を形成する。阿久根港は中国帰化人で藩御用商人河南源兵衛家の貿易基地ともいえ,その造船所・資材庫などが置かれ,幕末期には河南家の雇用者が村中の半数を超したとも伝える(阿久根の古文書)。また,阿久根大島の野生鹿は万治年間に藩主島津光久が放ったものであり,同島の金刀比羅神社は天明4年藩主島津重豪が勧請したものであるが,ともに源兵衛船の琉球貿易などの際の航海安全を祈ったものと伝える(阿久根市誌)。倉津港は鎖国以後,遠見・異国船の両番所が設置され,遠見番人の展望地留丘はこのころから遠見が丘と呼ぶようになった(阿久根のむかしばなし)。また安永元年,明の密貿易船が倉津港に漂着し,今日名産とされる阿久根文旦をもたらした。文化5年三日築(月)北溜池の完成により,そこから引かれる用水で文化・文政年間高松川河口南部の大丸新田が開かれた。また,高松川取水臼田用水路およびその隧道工事は,安政3年完成の石碑を残す(県維新前土木史)。焼酎に関して,江戸初期阿久根浜に移住してきた折口重芳が琉球製法を伝えたといわれ,その祈願成就に万治2年奉納した石鳥居が南方神社に残る。南部の隔丘【おかこし】の塩田は江戸初期旅僧によって発見され,宝永7年建立の塩釜大明神を残し,北薩の名塩田と伝える(出水風土誌)。そのほか物産には,五色浜の五色石,天明年間に夷店林助が長崎の人から伝授してもらい製造をはじめた一口,大島に産する赤海松・海・都鳥・鹿などがある(三国名勝図会)。寺社には,応永5年創建の臨済宗蓮華寺・同宗大蔵庵,浄土宗西安寺,諏訪大明神社,天満宮,戸柱明神社などがある(三国名勝図会)。なお,寺院は排仏毀釈で廃寺。また,当村の空順法印像は,宝永頃の大火火留祈祷に感謝して元文3年に建立された。「県地誌」によれば,戸数562・人口2,660,牛23・馬281,漁船など大小船74,小学校が旧仮屋跡に設置され生徒数125(男111・女14),このほか戸長役場・警察署分署・郵便局がすべて中央西海岸にあった。また,生業構成は農家400・商家80・漁家70,物産は米・麦・粟・甘藷・実綿・藍葉・茶・煙草・黒砂糖・スルメ・ブリ・トコロテン・ワカメなど。明治22年阿久根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463089
最終更新日:2009-03-01




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