ケータイ辞書JLogosロゴ 東俣(中世)


鹿児島県>郡山町

 南北朝期から見える地名。薩摩国満家院のうち。東俣名ともいう。正平5年8月21日の比志島範平宛島津道鑑書状に「西俣并郡山城事,今朝東俣より馳申へく候」とあり,同年8月23日の比志島久範宛島津道鑑書状にも「東またの城に かたき寄せて候事,承候了」とある。これらの書状は正平5年の郡山城をめぐる島津貞久と伊集院忠国の戦いの様子を伝えている。なお,加治木氏系図(地誌備考)によると,加治木八郎親平の四男資平は,満家院内東俣・小山田・比志島・河田・西俣の地を父親平から譲られるが,その子息の幸満の代に承久の乱で院方にくみして没落し,所領は没官される。やがて幸満の所持していた満家院郡司職は税所祐満が引き継ぐ。東俣も税所氏の引き継いだ所領の中に入っていたと考えられるが,南北朝期に入り,税所氏の勢力が院内から後退すると,厚地・東俣・油須木等は島津氏の支配に属するようになったと思われる。下って戦国期の文明17年4月21日の島津忠昌宛行状によれば,「満家院東俣名厚地之村」の内の数か所計8町6反余が知行地として田代清光に与えられている(田代家文書/県史料拾遺)。また,享禄4年3月8日の島津勝久判物によれば,勝久は厚地花尾神社の平等王院住職快瑜法印に「満家院東俣大平木場」を安堵している(坊津一乗院文書/旧記雑録)。これらの文書より東俣の範囲を考えると,現在の郡山町厚地も当時は含まれていたようである。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463121
最終更新日:2009-03-01




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