東餅田村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。大隅国始羅郡帖佐郷のうち。寛文年間に餅田村が当村と西餅田村に分村して成立(三州御治世要覧)。村高は,安永7年の「三州御治世要覧」では2,513石余,「天保郷帳」では餅田村として1,906石余,「旧高旧領」では2,367石余。高樋に五社神社がある。3月の節句に飾られていた帖佐人形は,主として高樋で製造され,高樋人形ともいった。人形製造はその後衰微し,現在は「帖佐人形保存会」に伝えられている。江戸期には,増満・倉脇・末吉・久保・前田・今古川・豊田・柳・風呂・堀之内・西園・北上・今川・三角・重田・高木・永吉・出口・川添・有村・松下・米沢・徳重・原口・相生・下飛田・上飛田・垂脇・吉原・米満・蔵満の31門があった(姶良町郷土誌)。鹿児島湾岸にある松原浦は弘安年間,平山了清が入津した港ともされ,八幡港ともいう。「要用集」によれば,本浦としての浦役を課せられ,天明6年の「帖佐由来記」では戸数104・人口243。五社大明神と御門神社がある。明治5年以後,塩田が開かれ,製塩業が盛んになった。桜島の西道との往来があり,桜島のダイコンと松原のワラとの交換が行われていた(姶良町郷土誌)。国分筋の街道がとおる別府川の舟渡し場の近くにある十日町は,10日に市の立つ定期市が,その起こりといわれる(姶良町郷土誌)。「要用集」では半浦に属し,百姓役と浦役が半々であった。天明6年の「帖佐由来記」によれば,高36石余,戸数32・人口151。「地誌備考」の帖佐名勝志では高26石余,「東餅田村之内十日町余地,半浦」と記されている。十日町の一角にあった小烏御蔵は,鍋倉村にあった帖佐郷の野町である納屋町の納屋御蔵とともに,帖佐与御蔵という。小烏神社は,山田上名の黒島明神が,中津野の老神と住吉池の所有権をめぐって争い,敗れた腹いせに蹴ちらした子供の一人がとんでいった所に神社を祀ったのであるという(姶良町郷土誌)。明治14年の「姶良桑原囎唹郡役所管内一覧」によれば,餅田村は田畑反別210町歩余,戸数139・人口612,うち士族73戸・305人,平民66戸・307人,十日町は士族はなく平民31戸・143人。明治22年帖佐村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463124
最終更新日:2009-03-01