ケータイ辞書JLogosロゴ 平佐郷(近世)


鹿児島県>川内市

 江戸期〜明治22年の郷名。薩摩郡のうち。鹿児島藩北郷氏領,外城の1つ。初代の北郷三久は文禄4年の検地に際し,それまでの所領日向国三保院の返地として,島津義久より薩摩郡のうち平佐・天辰・宮里・高江の4か村,入来院のうち塔之原村,祁答院のうち久富木村,市来のうち川上村あわせて1万1,543石余を賜う(御秘文雑集)。ただし,元和元年の上地以後当郷は平佐・天辰の2か村からなり,地頭仮屋は平佐村の平佐城に置かれた。北郷三久は,豊臣秀吉の朝鮮出兵では二度とも渡海し,元和元年大坂の陣の時も家中士卒260人を率いて出陣した。なお,慶長の役から凱旋した三久は多数の唐人を連れて帰り,川内川河岸の白和に住居を与え水夫あるいは商いに従事させた。その後,北郷氏の家中士が白和周辺に移住して加治屋馬場・横馬場などの町場を形成し,白和は「白和町」「唐人町」とも呼ばれ,向田の渡唐口【ととんぐち】に近く水陸交通の要地に位置することもあって,次第に浦町として発展した。「平佐由緒記」によれば,元和8年の白和町は屋敷5畝ずつ7か所・名頭7人,唐人屋敷5畝ずつ6か所・名頭6人,納銀65匁(1か所につき5匁・半役),浦役として大部当・小部当それぞれ1人が置かれた(川内市史)。また,浦町として,文化3年「諸浦御奉公並万上納物之定」では,白和町は浦男女124人,浦38人立,雇立・魚運上銀・漁師銀なしと見える。さらに,安政2年町奉行として広瀬善兵衛の名が見える(同前)。江戸中期には,当郷を領する北郷氏が隈之城郷地頭を兼務することが多い。万治の検地の後,平佐川南部の隈之城郷東手村草原・権現原地域が当郷平佐村に付加され,さらに,樋脇郷(延宝9年以前は清敷郷)のうち楠元・久住・中村の3か村が北郷氏の持切名となった。「享保御改」では,郷総高2,514石(うち家中高2,209石余),家中士512,用夫46,浦用夫75。「薩藩政要録」では,北郷内記私領,家中士惣人数1,634,家中士人体655,所惣高2,570石余,家中高1,944石余・寺社高161石余,用夫74。「要用集」では,北郷作左衛門私領,家中総人数1,583,家中人体638,所総高2,578石余,家中高1,854石余・寺社高161石余,用夫94。物産としては,鳥銃・磁器・鯉・鮒・鱸がある(三国名勝図会)。天保10年家督を相続した12代北郷久新は,弘化年間側室(於茂登)懐妊に対する正室(於令)の嫉妬劇が原因で,藩主から御役御免を言い渡される。これが俗に「平佐崩れ」といわれる一件である(川内市史)。13代北郷久信は,安政年間仮屋に広才館を創設し,野涯阿波岐を主幹として専ら家中士の子弟に読書・手習を学ばせた。維新期の戊辰戦争の際,当郷の家中士も明治元年1月・8月の二度にわたって出陣した。明治2年それまで北郷氏の持切名であった樋脇郷楠元・久住・中村の3か村が当郷に編入され,当郷は5か村となる。明治4年鹿児島県に所属。同年当郷は市来郡治所の管轄下となる。のち明治12年伊佐郡宮之城郡役所を経て,同14年からは薩摩郡隈之城郡役所の管轄下となる。連合戸長役場が平佐村に置かれた。「地理纂考」では,高4,873石余,戸数874・人口4,150(士族1,947・平民2,208)。「県地誌」では,戸数983・人口4,291(士族1,709・平民2,582)。明治10年代平佐村から白和町が分立。明治22年1町5か村は平佐村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463186
最終更新日:2009-03-01




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