ケータイ辞書JLogosロゴ 平房(中世)


鹿児島県>輝北町

 鎌倉期から見える地名。大隅国小河院のうち。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符に小河院のうちとして「平房六丁」とある(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。南北朝期には,建武3年に当地の加瀬(世)田城にたてこもった肝付兼隆軍と島津貞久軍との間で激しい攻防が行われたが,島津軍の夜襲によって6月10日に落城している(禰寝文書)。下って「忠元勲功記」「箕輪覚書」などによれば,天正2年肝付氏は島津氏に降り,伊東氏との交わりを絶つことを誓ったが,天正5年8月,島津義久は高原に出陣した時,肝付氏が伊東氏に与するのではないかとの疑惑をもった。そのため肝付氏は義久の疑惑をはらすべく飫肥南部で伊東氏と争って却って敗退,福島を保ち,島津氏は福島に大軍を馳集めて,伊東氏を退却させた。この合戦後,島津義久は肝付兼護に高山1か所のみを与え,「姶良・大姶良・内之浦・串良・北原・鹿屋・百引・平房・松山・大崎・志布志・福島」を召し上げ,以後島津氏が領した(旧記雑録)。文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印状案には,伊集院右衛門入道(忠棟)知行分として「八拾石,大隅之内平房内」と見える(入来文書)。曽於【そお】郡輝北【きほく】町の大字平房の地に比定される。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463195
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ