ケータイ辞書JLogosロゴ 藤野村(中世)


鹿児島県>桜島町

 南北朝期〜戦国期に見える村名。大隅国向島のうち。明徳4年6月26日付の慶本奉書に「向嶋西方内藤野村名頭職」と見え,刑部九郎に宛行われている(向嶋士藤崎正兵衛文書/旧記雑録)。下って,戦国期の天文6年12月24日付島津勝久宛行状に「一 向嶋地頭之事并岳・藤野・松浦・さいたう(西道)・赤水之事」,「今度之仍忠節」とあり,本田紀伊守董親に宛行われている(勝久公御譜/旧記雑録)。その後元亀2年11月20日,肝付・禰寝・伊地知の諸士が兵船300余艘をもって鹿児島を攻撃したが,その状況を記した「長谷場越前自記」に「桜島の内ニ有る藤野村より家久様者御覧して,不審ニおもひてハ,若シ瀬戸村を破るべし,若武者ハ懸け続き籠り相ひ,高名いたせと御下知也」とある(旧記雑録)。また,「樺山玄佐譜」天文8年6月17日条によれば,樺山安芸守が「向之島之内松浦・二俣」を宛行われているが,両地は「後日替于藤野也」とされている(同前)。下って,関ケ原の戦では,島津氏は西軍に属して敗退したが,戦後義弘は当地に蟄居して徳川氏に恭順の意を示した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463245
最終更新日:2009-03-01




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