ケータイ辞書JLogosロゴ 辺牟木山(中世)


鹿児島県>郡山町

鎌倉期に見える地名薩摩国満家【みついえ】院のうち建長2年12月の法橋栄尊申状によれば,比志島氏の祖西俣名主栄尊は,満家院西俣名内辺牟木山の木を切り岩を崩して草堂一宇を建立したいと申出で,地頭代および地頭から許可されている(比志島文書/旧記雑録)その書状の裏に辺牟木山の四至が次のように記されている「東限たけのミち,南限ゐてのはらのきたのミねのいたたき,西限川,北限かとのき山」この四至は建長3年2月栄尊が辺牟木山の本主領家の御房に,草堂を建立した土地に対する公課の免除を申請した文書にも全く同様にしるされている(同前)ところで「東限たけのミち」とは,西俣から神之川の上流を渡って伊集院内嶽(郡山町嶽)に行く道路で,「西限川」の川は神之川,「北限かとのき山」は小字門貫の山であろう「南限」の井手原の北の峯は確証を以て措定し難いが,建長5年7月10日の栄尊置文の一部とされている栄尊所領配分状(同前)に「一西俣名代官者,弥三郎守忠,但此内辺牟木之木場山口田五反者,乙万可領知」とあり,門貫のすぐ近くで神之川沿いに小字木場田の存するところから,辺牟木山は門貫木場田付近の山地とみることができよう栄尊の五男乙万は辺牟木又五郎義隆(栄慶)で辺牟木氏の祖となり辺牟木の地を相伝する義隆の孫が義英であるが,「島津国史」は長禄3年2月島津忠国が比志島一族をして平山氏を討たしめた注に「辺牟木・前田・西俣・河田・小山田皆比志島氏之族也第五巻元弘元年,有辺牟木兵庫頭義英,義英子曰誼久,誼久子曰久家,久家子曰家昌,皆称兵庫頭」としるしている
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463321
最終更新日:2009-03-01




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