ケータイ辞書JLogosロゴ 坊津(中世)


鹿児島県>坊津町

 鎌倉期から見える地名。薩摩国河辺【かわなべ】郡のうち。現存する初見文書は,嘉元4年4月14日河辺郡地頭代官・同郡司千竈時家譲状で,それに「ハうのつ」とある(千竈文書/県史料拾遺)。時家は北条氏得宗家の被官であり,北条氏が河辺郡を所領としたのも,天然の良港坊津があったからである。「山田聖栄自記」によれば,応永27年加世田・河辺・知覧等を平定した守護島津久豊は,「夫より坊津・泊津に御下り,更に草木もなひき候得者,大慶此時に候,か様に薩摩一向に御静謐候」とあり,久豊の南薩摩征討の目的の1つが坊津・泊津の領有にあったことが知られる(県史料集)。文明6年9月29日取竜書状に,「今度渡唐船事,被仰出候之間……就其自公方,為硫黄御催促被成奉書候,平戸へと被仰候へ共,とても其方可罷通候間,ほうの津に可被置候」とある。すなわち幕府は渡唐船派遣に際して島津氏に硫黄の上納を求め,坊津に集荷するよう命じたのであり,坊津がその寄航地であったことが知られる(忠昌公御譜/旧記雑録)。天文3年9月16日島津家老臣連署書状によれば,島津貴久は,琉球国を競望し薩摩に下着した備中国三宅国秀が坊津を破却したのでこれを刑戮したが,余党がなお渡海を企てているのでこれを阻止するつもりである旨を琉球国三司官に申し送った(御文庫22箱/同前)。この三宅事件は,島津氏が琉球貿易独占体制を確立するためにつくり上げられた虚構の事件であった。坊津はまた左大臣近衛信輔流謫の地として知られている。信輔は文禄3年4月15日京都を発して5月下旬に当地に着き,慶長元年赦免されて7月6日にこの地を発した(三藐院記)。なお,鎌倉幕府の廻船式目制定については,真偽に諸説があり,写本も数系統存在するが,「忠久公御譜」所収のものなどによると,「貞応弐年癸未三月十六日ニ兵庫辻村新兵衛尉・土佐浦戸之篠原孫右衛門・薩摩坊津飯田備前守,天下ニ被召出,船法御尋之時申上刻,御袖被成御判候者也」とある(旧記雑録・鎌遺3069・同3071・同3072・同3073)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463327
最終更新日:2009-03-01




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