ケータイ辞書JLogosロゴ 松山(中世)


鹿児島県>松山町

 室町期から見える地名。日向国のうち。文明6年の行脚僧廻録に「一 新納殿分南郷・志布志・安楽・松山」とあるのが初見(旧記雑録)。当地には松山城があり,戦国期には諸勢力の同城争奪戦がくり返された。松山城址(地元では松尾城という)は松山町新橋にあり,文治4年池大納言平頼盛第4子知重の子重頼の築城と伝える。下って天文の頃には北郷忠相・豊州家島津忠朝・新納実久・肝付兼続らによる同城争奪がくり返されたが,天文末期島津忠親が奪い,忠親は一族平山越後守忠智をして松山城を守らせた。永禄2年4月14日,当時忠親は肝付兼続と争っており,忠親に合力すべく志布志へ向かった忠智は,兼続方の兵に迎撃されて伊崎田楢ケ原に敗死,松山城も肝付勢に急襲されて忠智の2子久武・久次は戦死し,松山城は肝付氏の手に落ちた(島津国史)。忠智自刃の地と伝える楢ケ原には忠智供養の地蔵像が残されている。以後,「北郷時久日記」永禄5年4月5日条に「松山城自肝付忍入取」とあるように(旧記雑録),必ずしも安定してはいなかったが,大略肝付氏が当地を支配した。しかし,天正5年肝付氏は没落,「肝付か領分先此節召上らるべしとて姶良・大姶良……郡外に押領の地松山・大崎」などは全て島津義久の支配に入り(箕輪覚書/旧記雑録),松山地頭市来小四郎家親が配置された。天正8年の肥後合戦御陣立日記には「諸外城地頭衆」の1人として「〈松山〉市来小四郎殿」と見える(旧記雑録)。文禄検地の際には,義久蔵入分10万石のうちに入り,この時志布志郷から新橋・尾野見・泰野3か村を分離,松山郷としたという。なお,室町期の嘉吉元年,嘉吉の乱に敗れた赤松満祐の子教康が志布志に逃れ,のち当地に来て松尾城の南麓中島に居住したといい,その墓地と伝えるものが現存する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463394
最終更新日:2009-03-01




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