ケータイ辞書JLogosロゴ 溝辺郷(近世)


鹿児島県>溝辺町

 江戸期〜明治22年の郷名。大隅国始羅郡のうち。鹿児島藩直轄領。外城の1つ。竹子【たかぜ】・三縄【みなわ】・麓(溝辺)・有川・崎森の5か村からなる。有川村は網掛川上流域,竹子村は網掛川・久留味【くるみ】川上流域,三縄村は久留味川流域,麓村は十三塚原の北半分,崎森村は十三塚原の南半分および日木山川・崎森川上流域に立地し,可耕地は川沿いの狭い水田と十三塚原台地上の畑地で,ほとんどは山林からなる山村である。はじめは加治木の管轄にあったが,寛永8年加治木島津家の成立によって,竹子村は同氏の直接支配地,麓村は諸士給地となった。万治2年以降麓村は鹿児島給地に支配替えされ,崎森・有川・三縄村とともに鹿児島藩直轄地となり,竹子村のみが加治木島津家の私領として残った。当初は麓村玉利を中心に郷士が居住していたが,宝暦3年有川村に地頭仮屋が設置され,以後有川村が溝辺郷の中心となった(溝辺町郷土誌)。この理由は吉田薩摩筋とよばれた,吉田―蒲生―有川―永野金山―横川―栗野―吉松を結ぶ交通路の要衝に有川村が位置していたためとみられる。有川村の瀬間利【せまり】には一里塚があり,「三国名勝図会」に見える特産の「石原饅頭」は,同村の石原が吉田薩摩筋・金山筋と呼ばれる交通路の要地であったことを物語る。農業は畑作が中心で「溝辺ゴボウ」の名が知られたが,土地の生産性は極めて低く農民は甘薯が常食であったと伝えられる。江戸期の開発は用水路および溜池の設置に力が注がれ,現王池・丹生附【につけ】池・剥岩池・深川池・極楽池など20を超える用水池が作られた。幕末には麓村の横頭・石峯・鍋・論地地区に南薩方面から開拓農家が移住し,原野であった十三塚原の開拓にあたった(溝辺町郷土誌)。山村であるが,満塩・塩入などの姓が多く見られるのはこの移住によるものであろう。総鎮守は麓村の橋ノ口にある鷹屋神社で,応永18年の勧請と伝える。「薩藩政要録」によれば,地頭窪田筑右衛門,郷士惣人数362・郷士人体147,所惣高4,535石余,郷士高557石余・寺高2石,用夫396・野町用夫9。「要用集」では,地頭富山半蔵,郷士総人数347・郷士人体151,所総高4,545石余,郷士高551石余・寺社高2石,用夫285・野町用夫5。「地理纂考」では,高4,466石,戸数843・人口3,248,うち士族1,126・卒138・平民1,984。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同5年鹿児島県に所属。郡役所は加治木郡役所の管轄となる。戸長役場は麓村石之峯と有川村石原に置かれ,前者が麓村と崎森村,後者は有川村・竹子村・三縄村を管轄した。公立学校は麓村に玉利小学校,有川村に溝辺小学校が設立された(郡役所管内一覧)。明治22年当郷5か村は溝辺村となる。〔近代〕
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463411
最終更新日:2009-03-01




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