南方村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。大隅国肝属【きもつき】郡内之浦郷のうち。「元禄郷帳」「天保郷帳」では南方村・南浦村に分村して見える。村高は「天保郷帳」によれば南方村として1,154石余,南浦村として945石余,「旧高旧領」によれば1,435石余。当村には地頭仮屋が置かれ,武士の居住地である麓や,野町人・浦浜人の居住地である浦町も当村にあり,商業・海運・漁業の中心であった。浦町は広瀬川河口左岸,麓に近接してあり,文化3年諸浦御奉公并万上納物之定によれば浦町の人数626。上町・仲町・下町・上向【かんむき】などに分かれていた。初代の浦役は東郷五郎兵衛実防。浦町の中心は恵比須・大黒の祠のある恵比須角一帯で,焼酎・麹・油・小間物などを取扱う商人が住んでいた。近くには好漁場があり,当藩屈指の漁獲をあげた。浦町人には,藩の命令によって参勤交代の際の大坂往復の船立の水手を出し,あるいは琉球・江戸に藩の物資を輸送する任に当たる水手立【かこだち】という賦役が課せられていた。また,藩に出入りする人および物資を監視する津口番所が置かれていた。浦町は人家が密集していたので大火災も多く,明暦元年〜天保11年に14回の火災の記録があり,浦町の全部が焼失し,近隣の諸郷から救助を受けたこともあった。大火のあと同地の名頭須田惣右衛門が藩米500石を借用して23反帆の船を造り,浦浜人に江戸・琉球航路に従事させてその生計を助け,浦町の疲弊を救った。火崎の近海は当藩有数の好漁場であり,また太平洋航路の要路にあたるので,背後の高地に遠見番所を置いた。薩英戦争の際,江戸から鹿児島にむかう英国艦隊を最初に発見したのはこの遠見番所であった。鎮守は天照大神を祀る神明神社。商人の信仰を集める八坂神社は貞享年間の創建である。浄土宗北林山玄忠寺は文禄2年不断光院第3世運誉上人が島津義弘の請により開山したもので,排仏毀釈により廃寺となったが,明治12年再興された。ほかに真言宗貴福山感応寺・臨済宗勝軍山長泉寺があった。幕末鹿児島藩主島津斉彬は海岸防衛のため,南方村海岸に砲台を築き,背後に調練場を設け,加世田・国分・清水・牛根などの諸郷から郷士82戸を移住させて,従来の郷士と併せてその訓練を行った。明治22年内之浦村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463436
最終更新日:2009-03-01