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南郷(中世)


 鎌倉期~南北朝期の郷名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7463440]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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南郷(中世)

鎌倉期から見える地名日向国諸県【もろかた】郡のうち建久8年6月の「日向国図田帳写」に島津荘一円荘のうちとして「南中郷」200町と見えるこの南中郷は,東大史料編纂所所蔵「長谷場文書」の建久図田帳に見える島津荘本荘分の「南郷」157町4反余と同一の地名を指しているとみられ,南郷は島津荘日向方の一円荘に属していたと推定される諸県郡内で,地頭は島津忠久忠久は,建仁3年の比企氏の乱にかかわり,島津荘大隅・日向方の地頭職を失い,これらは北条氏のもとに移った承元2年3月3日地頭所下文案によれば,地頭は南郷沙汰人に対して女房千代松母堂の屋敷の安堵を行っているさらに,建暦3年4月,僧智恵は「南郷内門貫山薗」を押領されたため,地頭笠氏に訴え,地頭所はこれを安堵したさらに,寛喜3年9月20日,智恵は「門木山」の薗を覚成房俊実に譲り,俊実は,天福2年3月18日,これを石根丸殿の女房の子息に売却している鎌倉末期,正和元年8月の応長元年地頭御得分米結解状によると,南郷末弘名は現作田が1町2丈中あり,除田が3反1丈中設定され,年貢収納対象の応輸田は7反1丈であったこのうち,地頭の用作分が中で,定田は7反中であり,損田が2反余あったため,現実の得田は5反余と計上されているこの南郷末弘名には将軍家への供料米が設定され,この結解状は公文所で処理されており,北条氏公文所に関係するものとみられるこのころまで,南郷末弘名を確保していた伴宗兼は,南郷末弘名を,正和2年5月7日,門貫次郎左衛門尉に20貫文で売却しているその後,平馬顕阿の手にあった南郷末弘名は,顕阿から音阿に移り,音阿は,正中2年10月8日,息子の盛貞に譲っていることが知られる(以上,長谷場文書)建武元年7月の島津荘謀反人交名(諏訪文書/旧記雑録前1)は,「島津庄日向方南郷」の北条高時一族の規矩高政に同意した反建武政権方の野辺盛忠等32名を書きあげたものだが,この中には,北条高時の家人布施四郎兄弟や北条守時の家人救仁郷源太が見え,日向国内の領主が北条氏に組織されていたことがわかるその後,野辺盛忠は肝付兼重方となり,日向南朝方勢力に入るが,これらの追討を担った北朝方の畠山直顕は,建武5年7月7日,肝付兼重追討の軍に加わった大隅の禰寝清成に対して「島津庄日向方南郷地頭職」を宛行っている(禰寝文書/南北朝遺1197)この間の事情について,暦応2年8月27日禰寝清通軍忠状(禰寝文書/同前1389)・暦応2年8月30日禰寝清種軍忠状(池端文書/同前1394)によれば,禰寝氏は,建武3年12月に日向国国大将畠山直顕が肝付兼重退治のため三俣院に軍勢を発して以来北朝方の軍勢に加わり,建武5年7月には,畠山直顕の南郷への軍勢発向に加わり,肝付兼重与党平山式部少輔のたてこもる大和田城を攻略し,暦応2年4月13日に落城させている大和田城とは,大岩田城のことで,都城を指しているとみられる暦応4年7月23日・12月20日畠山直顕軍忠状(禰寝文書・池端文書/日向古文書集成)には,直顕の日向での功績として「南郷大和城」を落城させた城として三俣院と財部城とともに記しているこうしたなかで,暦応2年12月25日,隆増は「南郷石永図合田内」の田を15貫文で長谷場氏に売却しており,石永図合内の地は2町と薗2か所があり,鹿児島郡司で本来的には南郷に土地の手がかりをもたない長谷場氏が南郷内に土地集積を始めたことがわかるまた,暦応3年7月13日,門貫貞阿は南郷末弘名の水田1町3反と門貫薗付の水田2反などを長谷場久純に譲り,同年8月6日,門貫貞命は,父の貞阿譲状の上にたって,領家御米の弁済は長谷場氏が行い,御公事が貞命にかかることは停止されることを長谷場氏と契約しているさらに,門貫貞阿は,同年8月19日,先に長谷場久純に譲った地を売却している長谷場氏は,諸県郡南郷の地に足場を固めたといえようこうしたなかで,島津荘領家一乗院は,康永4年3月16日,留守所下文を長谷場久純に対して発し,「島津庄日向方南郷門貫・末貞両名」を安堵し,さらに,長谷場幸純には「島津庄日向方南郷中野助法橋隆増跡」の石永図合内の地を安堵しており,島津荘領家は長谷場氏を末端に連なるものとして公認したことが認められる(以上,長谷場文書/南北朝遺1460・1551・1560・1572・2103・2104)南北朝後期になり,永和2年8月4日,室町幕府は,その意向にそぐわない島津伊久と氏久の治罸を九州探題今川了俊に命じたが,この頃とみられる8月13日相良前頼書状(禰寝文書/九州史料叢書19)は,「南郷并庄内合戦」が薩・隅・日3か国での合戦の要となることを禰寝氏に伝えている今川満範は,この年7月28日,前頼が真幸方面に進んだことを伝えており(同前),庄内が都城市庄内を指すと考えられることから,南郷は島津荘日向方南郷の可能性が強い室町期の島津氏の武将山田聖宏は,このことについて,都城には島津氏一族の北郷讃岐守,椛山美濃守が,庄内南郷の内の都城を確保し,相良氏をはじめとする一揆衆は都城へ迫ったこうしたなかで,永和2年の10月から12月,島津氏久は志布志から進入し,「南郷之内西城寺」の天下峰に陣をしいたと伝える(山田聖栄自記/鹿児島県史料集7)西城寺・天下峰は都城市梅北の西生寺(廃寺),天ケ峰を指していることからも,都城市庄内・南郷地域が,島津氏および九州探題の掌握すべき重要拠点であったとわかるこの南郷にある益貫村神柱宮は,島津荘の開発とかかわっているが,大永6年9月24日の勧進僧のいうところでは,益貫村神柱宮は平季基の住居であり勧請されて神柱宮ができ,永正13年には新納忠武が再建したあと,戦乱で荒れたため,この年,勧進を行い再興を企てたと記しているさらに,天文4年4月29日神柱宮再興棟札によれば,「島津御庄惣鎮守神柱宮」の宝殿が,檀越の藤原忠重・忠勝の手で行われたことが知られ,島津荘開発拠点として尊崇をあつめたことがうかがえる(旧記雑録前2)戦国期の永禄5年3月2日坪付(北郷文書/日向古文書集成)は,南郷内中薗門に関するものだが,2町の地に門の名頭用の地1反余が設定され,赤坂の神田を耕作したことがわかり,戦国末の頃,この地の農民も門に編成されていた南郷は現在の都城市梅北を中心とする地域である

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

南郷(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える郷名...

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南郷(中世)
南北朝期~戦国期に見える郷名摂津国豊島【てしま】郡のうち春日社領垂水西牧のうち桜井郷・榎坂郷を南郷,原田郷・萱野郷を北郷と称した両郷の呼称は,垂水西牧の荘園化を郷単位で進めた摂関家春日社によってなされたものと思われる暦応3年5月5日の摂津国守護赤松範資注進状案(勝尾寺文書/箕面市史史料編2)に「同国(摂津)南郷穂積住人」とあるのが初見で,穂積村が当郷のうちであったことがわかるが,「北郷」の名は文保年間にすでに見えるので,西牧を南・北両郷に区別するようになったのは鎌倉末期頃かと推定される社家は両郷にそれぞれ牧務職を置いたが,唐院古文書写所収の延徳2年12月日の神人春枝申状(大乗院文書/吹田市史4)や「多聞院日記」文明18年8月20日条などによると,当郷牧務職は社家坂口家,ついで大東家がこれを相伝したことが見えているところが「雑事記」寛正2年6月1日条には,この頃当郷の牧務職はその知行が困難となったため,興福寺学侶方が同職を引き継いだことが見えている戦国期には垂水・榎坂・小曽禰・服部・穂積を総称して「南郷五ケ村」とも称したまた天文2年頃には,南郷と北郷は毎月の春日社日並供御を15日間ずつ分担していたが,毎月6日から10日の日並分料は「南郷桜井郷」が,21日から晦日の分は「南郷五ケ村」が各々負担していた(多聞院日記)なお,永正4年と推定される10月11日の興福寺供目代快栄書状(今西文書/豊中市史史料編1)によると,永正年間池田筑後守が南郷五か村の押領を企てて失敗した旨が見え,戦国期には池田氏が進出していた結局,社家も年貢収納のために池田氏を登用せざるをえず,天文15年6月日の池田信正の南郷神供米切出注文(同前/豊中市史史料編2)によると,信正は社家目代今西氏に,南郷から150石の神供米を水損にかかわらず,給人から納入させるように約しており,池田氏による給人支配体制が確立していたことがわかる...

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南郷(中世)
南北朝期~戦国期に見える郷名摂津国豊島【てしま】郡のうち春日社領垂水西牧のうち桜井郷・榎坂郷を南郷,原田郷・萱野郷を北郷と称した両郷の呼称は,垂水西牧の荘園化を郷単位で進めた摂関家春日社によってなされたものと思われる暦応3年5月5日の摂津国守護赤松範資注進状案(勝尾寺文書/箕面市史史料編2)に「同国(摂津)南郷穂積住人」とあるのが初見で,穂積村が当郷のうちであったことがわかるが,「北郷」の名は文保年間にすでに見えるので,西牧を南・北両郷に区別するようになったのは鎌倉末期頃かと推定される社家は両郷にそれぞれ牧務職を置いたが,唐院古文書写所収の延徳2年12月日の神人春枝申状(大乗院文書/吹田市史4)や「多聞院日記」文明18年8月20日条などによると,当郷牧務職は社家坂口家,ついで大東家がこれを相伝したことが見えているところが「雑事記」寛正2年6月1日条には,この頃当郷の牧務職はその知行が困難となったため,興福寺学侶方が同職を引き継いだことが見えている戦国期には垂水・榎坂・小曽禰・服部・穂積を総称して「南郷五ケ村」とも称したまた天文2年頃には,南郷と北郷は毎月の春日社日並供御を15日間ずつ分担していたが,毎月6日から10日の日並分料は「南郷桜井郷」が,21日から晦日の分は「南郷五ケ村」が各々負担していた(多聞院日記)なお,永正4年と推定される10月11日の興福寺供目代快栄書状(今西文書/豊中市史史料編1)によると,永正年間池田筑後守が南郷五か村の押領を企てて失敗した旨が見え,戦国期には池田氏が進出していた結局,社家も年貢収納のために池田氏を登用せざるをえず,天文15年6月日の池田信正の南郷神供米切出注文(同前/豊中市史史料編2)によると,信正は社家目代今西氏に,南郷から150石の神供米を水損にかかわらず,給人から納入させるように約しており,池田氏による給人支配体制が確立していたことがわかる...

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南郷(中世)
 戦国期に見える郷名...

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南郷(中世)
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南郷(中世)
 室町期から見える郷名...

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南郷(中世)
戦国期に見える郷名水内【みのち】郡のうち葛山の西北方の山地にあり,北郷に対する両郷合わせて北南之郷ともいい,1郷分の所務を負担した天文23年3月20日の下諏訪造宮取所覚には「北郷・南郷共正物合三貫五百文 此外小役四百文」とあり,広瀬荘7か郷では秋宮の造営費24貫500文を負担し,北郷・南郷はそのうち3貫500文を負担した(桃井文書/信史12)元亀元年9月1日の武田信玄寄進状案に新寄進分として「拾壱貫五百 南郷之内〈伊毛井村在家梨窪山共ニ〉」とあり,飯縄神領として寄進されている(仁科文書/同前13)梨窪山の南,江戸期の新安村周辺,現在の長野市富田付近に比定され,当郷は「和名抄」芋井郷の名残と考えられている...

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南郷(中世)
鎌倉期に見える郷名筑後国三潴【みずま】郡のうち永仁4年12月の玉垂宮大善寺仏神事注文写(隈文書/鎌遺19238)に,三潴荘鎮守玉垂宮の5月15日に行われる五月会の際出される日饗膳について,「給主米一升令下行,西南郷百姓等同二升饗同,下机一臈充,号田堵饗,八ケ所座并相撲三十四人備之」と見える同文書に東郷・西郷・中郷とあるから,この西南郷は西郷および南郷と解すべきであろう三潴郡内を東・西・中・南4郷に分けたものと思われるが,他の史料にこれらの郷名は見えず,玉垂宮神役勤仕のための便宜的な呼称であろう南郷に属する村名については記す所がなく,具体的な比定地は未詳...

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南郷(中世)
 鎌倉期から見える郷名...

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南郷(中世)
 南北朝期から見える郷名...

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