ケータイ辞書JLogosロゴ 餅田村(中世)


鹿児島県>姶良町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。大隅国帖佐郷のうち。建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符に,帖佐西郷の公田143町5反の一所として「餅田廿七丁四反小〈加神田寺田定,除貢進田一丁〉定廿六丁四反小〈二丈六尺四寸六分〉御家人税所義祐」とあり,弘安年間ごろの守公神侍畳図にも,餅田の名が見える(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。また,建治3年8月の寺家公文所下文と執印法橋某施行状によると,藤原義祐が餅田村預所職に補任されているが,この義祐は石築地役配符に見る税所義祐と同一人であろう。さらに弘安2年11月日付の弥勒寺公文所下文で餅田村預所職に藤原信輔が補任されており,同3年8月23日には藤原信輔は,正八幡宮政所職已下得分并餅田村を,子息童名観音丸に譲り渡している(御文庫二番箱他家文書/同前)。以上に見るように餅田村は税所氏を代々預所職とする大隅正八幡宮領であったが,やがて康安元年7月日付の正八幡宮領帖佐村供田坪付注文に,「もちゐ田の村三反,五反,餅田殿用作云々」とあり(旧記雑録),餅田氏の進出がみられる。餅田氏は平山氏の庶流という。正平12年閏7月日付の三条泰季感状に,「平山之内餅田城御陣之時」とある。これは宮方の久木崎五郎三郎久春が,餅田氏の居城餅田城を攻めた時のことで,餅田城は姶良【あいら】町西餅田にあり,茶臼城ともいう(姶良町郷土誌)。その後島津氏の進出がみられ,永享8年閏5月20日には島津忠国が当地内の地10町を大隅正八幡宮に寄進しており(忠国公御譜/旧記雑録),明応4年9月13日には島津忠昌が同じく5町を同宮に寄進している(忠昌公御譜/同前)。この間,永伝元年(延徳2年)8月21日付の渋谷重豊譲状には「一所同(大隅)餅田之内 森山之門 前原門」が見えるので(入来院家文書/同前),一時入来院氏の領有する地もあったらしい。下って,永禄9年2月吉日付島津氏老臣連署坪付で,帖佐郷内餅田名の下富田門・新入田・深田・たうてん・ゆるきむた・馬渡利など7筆6反余の地が田中越中守に宛行われている(入来家臣田中家蔵文書/同前)。永禄8年8月以来帖佐郷を支配する島津以久が田中氏に与えたもので,田中氏はのち入来院氏の家臣となり,子孫は入来に居住したという(姶良町郷土誌)。また,天正3年3月吉日付島津氏老臣連署知行目録写では餅田名古河門の古河・栫の下・中の餅田・北乃崎・つゝミ添・深田・寺牟田・宮之後・町の後,以上9筆1町1反余が松下刑部少輔(久孝)に与えられている(松下兼知家相伝文書/鹿児島中世史研究会報28)。なお,「山本氏日記」弘治元年4月2日条には「新城」が見える(旧記雑録)。これは享徳3年に平山城をおとしいれた島津季久が,帖佐領主として新たに築いた城で,西餅田にある瓜生野城のことであり,平山城に対して新城と呼んだ。のち義弘時代に,明人の頴川三官が,瓜生野城の要害堅固さが中国の建昌城によく似ているといったことから,建昌城と呼ぶようになったという(姶良町郷土誌)。また,「上井覚兼日記」天正4年正月条には「八日市」が見えるが,現在東餅田の小字に上八日町・中八日町・下八日町が残っている。「山本氏日記」弘治元年3月24日条に見える「四日市」も同地のことで八日市の誤りであろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463519
最終更新日:2009-03-01




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