ケータイ辞書JLogosロゴ 百引村(中世)


鹿児島県>輝北町

 平安末期〜戦国期に見える村名。大隅国小河院のうち。百疋とも書く。承安5年8月14日・安元元年12月の島津荘政所下文に「□(御カ)庄政所下 百引村 定遣弁済使職事 勾当僧安兼」と見え,富山氏の祖僧安兼が当村弁済使職に任命されている(富山氏文書/旧記雑録)。建久8年の大隅国図田帳には島津荘寄郡内に「小河院内百引村十三丁四丈〈近郷小河院内有之〉」とある。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符にも同じく寄郡内に「同(小河)百引村十三丁四丈〈一丈三尺八分〉」と見える(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。南北朝期には,建武2年10月7日の大宰府宛太政官符に「中宮職領管大隅国寄郡内……百引村……預所職」と見え,当村を含む島津荘寄郡の預所職が島津貞久に与えられている(藤野氏文書/旧記雑録)。そして,貞治2年4月10日には貞久から乙寿丸(氏忠)に鹿児島内永吉村,筑前国三奈木村地頭職とともに譲与されている(但馬守氏忠御譜/旧記雑録)。また,当村の地頭代官職も史料に見え,建武3年5月27日の島津道鑑宛行状によると,肝付兼隆が拠っていた加世(瀬)田城攻めに軍功のあった野上田伊与房(時盛)に「百引村地頭代官職」が宛行われている(田代氏文書/同前)。さらに,観応元年6月24日と推定される島津荘大隅方寄郡田数注文に「寺社御寄附分 但道鑑拝領九ケ所之内」として「百引村 十三町四丈〈博多聖福寺御寄附同年同月日(建武3年2月日)〉」と見えることから,南北朝期には博多の聖福寺も当村から得分を得ていたことがわかる(道鑑公御譜/旧記雑録)。その後,永徳元年6月2日の今川了俊(貞世)書下に禰寝彦三郎入道の知行分として「百引弁分」が見え(禰寝文書),嘉吉2年3月18日の島津持久宛行状では「嶋津庄大隅方小川院内百引六町」が山田忠尚に宛行われている(山田聖栄譜/旧記雑録)。下って,文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印状案には伊集院忠棟の知行分として「千七百五拾六石五斗壱舛八合〈大隅之内〉もびき」と見える(入来文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463534
最終更新日:2009-03-01




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