ケータイ辞書JLogosロゴ 掖玖(古代)


鹿児島県>上屋久町

 飛鳥期〜平安期に見える地名。多褹【たね】国のうち。のち大隅国熊毛郡のうち。夜久・夜句・益久・益救とも書く。現在の屋久島に比定されるが,初期には薩摩・大隅両国近傍の島嶼の総称ではなかったかという(県史)。「隋書」の煬帝大業3年(日本では推古天皇15年)条に,煬帝の命による羽騎尉朱寛の流求国鎮撫の記事に関連して「夷邪久国人」の名が見え(百納本二十四史15),「夷邪久」は掖玖(屋久)を指すものと考えられている。日本の史料では「日本書紀」推古天皇24年3月条に「掖玖人三口帰化」とみえ,同年7月までに30人の掖玖人が帰化している。13年後の舒明天皇元年夏4月辛未朔条によれば,朝廷から田部連なる者が掖玖に派遣され,翌年9月に帰朝,舒明天皇3年春2月辛卯朔庚子条には「掖玖人帰化」とあり,掖玖人が朝廷と本格的に交渉を持ち服属したのはこの頃らしい。上記の一連の記録は南島との交渉についての最初のものであり,竹嶋・吐火羅・海見・多禰などの諸島の記事はこれ以後になって正史に現れる。「続日本紀」文武天皇3年秋7月辛未条・同書霊亀元年春正月甲申朔条には掖玖その他南島からの来朝と方物貢納のことが見え,服属の具体相をうかがわせる。同書和銅2年6月癸丑条には「薩摩・多禰両国司」の称があり,これ以前に現在の種子島・屋久島を含む多禰国(多褹島)が成立していたことが知られるが,掖玖はその1郡たる益救郡に属した。天平5年6月丁酉条によれば「多褹嶋……益救郡大領(郡司)外従六位下力理伽【かりか】等一百卅六人」に多褹直の姓が与えられている。また,天平勝宝6年正月癸丑条の大宰府奏は,鑑真らを乗せた遣唐副使吉備真備の船が同5年12月7日に「益久嶋」に着いたことを報じている。この記事は掖久(屋久)が島名としてみえる史料的初見である。平安期には「類聚三代格」所収天長元年9月3日太政官奏に大宰大弐小野峯守らの解により,多禰島を廃止して大隅国に合併する運びとなったことがみえ,益救郡も大隅国熊毛郡に属することとなった。ただし,「県史」や「地理志料」は上記史料に疑問を呈し,益救郡は馭謨【ごむ】郡に合併し,屋久島は全島が馭謨一郡になったと解釈すべきものとしている。なお,南島唯一の延喜式内社たる益救神社が当地に鎮座することは,当地が古来から重視された一証左であろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463548
最終更新日:2009-03-01




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