ケータイ辞書JLogosロゴ 屋久島(近世)


鹿児島県>上屋久町

 江戸期〜明治22年の広域地名。大隅国馭謨【ごむ】郡のうち。鹿児島藩直轄領。郷には属さず,はじめ屋久島代官,元禄8年からは屋久島奉行の支配下に置かれた。属島に口永良部【くちえらぶ】島がある。「薩藩政要録」によれば,本村に宮之浦・長田・栗生・安房【あんぼう】の4か村があり,小村は宮之浦村に一湊【いつそう】・楠川・志戸子・小瀬田,長田村に吉田,栗生村に中間・湯泊・平内・小島・椎野・恋泊,安房村に尾間【おのあいだ】・原・麦生・船行・黒石野の16か村がある。口之永良部島には口之永良部村がある。「三国名勝図会」では本村に吉田・栗生・長田・永良部の4か村があり,属村は吉田村に宮之浦・一湊・志戸子・楠川・小瀬田・船行・安房の7か村,栗生村に麦生・原・尾野間・小島・恋泊・椎野・平内・湯泊・中間の9か村,長田村と永良部村にはない。蔵入高は,寛永16年屋久島1,374石余,享保11年屋久島1,385石余・口永良部島184石余,以後「薩藩政要録」「要用集」ともに変わらず。屋久島の1,385石余は米納を免ぜられ,すべて屋久杉から作った板瓦用の平木【ひらぎ】で納め,口永良部島の184石余は島役扶持米として払うきまりであった。用夫数は,「薩藩政要録」では屋久島1,095・口之永良部島89,「要用集」では屋久島1,176・口之永良部島80。杉材の産出は,寛永の頃安房出身の儒学者泊如竹が島民に利用を勧めたのに始まり,島内では一切の私売を禁じ貢租の代納物とした。平木は庄屋が集めて屋久島奉行に納め,屋久島奉行から作事奉行に送られた。貢租の際の諸品代平木束数はほぼ一定し「屋久島手形所規模帳」によれば,真米1石代平木140束・小麦1石代平木52束・大麦1石代平木26束・大豆1石代平木100束・小豆1石代平木15束などとなっていた。1束とは平木100枚で,1丁とも呼んだ(県史)。平木の形状は,長さ1尺6寸・本口3寸3分・末口2寸6分などである。島民は平木を上納し,引替えに藩から米を交付され,これを米食の手段とした。屋久島に門割の実施された記録はないが,地割制度の実施された村がある(屋久島民俗誌及び問題別の調査報告書―上屋久町)。屋久島奉行の役名は元禄6年の諸役人誓詞からみえるともいい,初めは抑役を駐在させたのみであったが,宝永5年のシドッチ潜入事件以後抑役を廃して屋久島奉行が1人ずつ1年交替で在島することになった。奉行所は宮之浦にあり,在番も置かれた(県史)。奉行所支配の基準は享保13年の「屋久島手形所規模帳」で,船運・林業用木・漁業・役人・流人・宗門改などからなる(南日本文化)。黄楊木【つげ】・檜・柏【かしわ】・杉・棕梠之木并皮・蘇鉄・松節・桑之木・櫨之実・三丹【さんだん】花・鹿之皮并角などは他国への持出しを禁止されていた。屋久島・口永良部島には領内諸浦および他領からも出漁したが,出漁の際には船手の免証文が必要とされ,手形銀・山役銀その他の運上と漁獲物の積出しにも津口銀が課された。シドッチの屋久島潜入は宝永5年8月末のことで,恋泊村の浦崎の海岸に上陸,炭材採取中の藤兵衛は村内の松下という場所で和装帯刀の異人に遭遇し島役に報告した。在番の役人はシドッチを宮之浦に護送・拘置し,鹿児島の藩庁へ報告,藩からは長崎奉行へ報告され,島の在番役は藩命により島中5か所の津口番所を閉ざして出入りを禁じ島中を検索したが異状はなく,シドッチは山川を経て長崎へ送られた(県史)。異国船の漂着に備え島内各村は藩から鉄砲を貸与されたが,持主は親子・兄弟といえども鉄砲の貸借をしてはならなかった。持主の変化(死亡・老衰・疾病)は迅速に報告する義務があり,持主を確認するための鉄砲改も行われ,持主の保証人を務めて署名したのが鉄砲組である。組内に変化があると組替えも行われ,結果は屋久島奉行から鉄砲改奉行所に報告された。流人は村ごとに割り当てられ庄屋がひきとった。主に上方の罪人,藩内の女の罪人が流され,村では適当な空屋に入れて食料を与えた。流人の中には教養があり,裁縫に優れ,茶道・華道に通じている者もおり,島民は教えを仰いだという(屋久島民俗誌)。島内の要地である宮之浦・長田・栗生・安房・一湊の各村には船改所があり,宮之浦村には津口番所も置かれた。寺院はすべて法華宗で宮之浦村に久本寺,栗生村に本寿寺,一湊村に本隆寺,安房村に本仏寺,長田村に顕寿寺のほか,この5か寺の末寺が島内諸村にあった(三国名勝図会)。安房村出身の江戸初期の儒学者泊如竹は,元和末から寛永初期まで伊勢の藤堂高虎に仕え,その後琉球の尚氏に仕え,寛永17年から正保4年まで島津光久の侍講を勤めた(南日本文化)。伊能忠敬の屋久島測量は文化9年3日月末から4月初めにかけて行われ,安房村から東西二手に分かれ,延べ16日の実測期間で一周測量は終わり,口永良部島の実測はなかった(伊能忠敬の屋久島・種子ケ島測量)。甘蔗栽培は,天明年間頃大島の人が来島し,栽培法と製糖法を伝えたというが振わず,安政年間から次第に隆盛に向かったという。物産には蕃薯・ガジュツなどの薬草類,無花果などの果実類,海馬・馬・鹿・猿・鰹・鰹節・鰹塩干・飛魚・珊瑚・硯石・盆石・シイタケ・カワノリ・屋久杉・ナガラメなどがあった(三国名勝図会・地理纂考)。明治4年鹿児島県に所属,「地理纂考」による戸数1,071・人口6,682。明治5年種子島【たねがしま】郡治所,同12年からは鹿児島郡鹿児島郡役所に所属。同22年小瀬田・宮之浦・楠川・一湊・永田・志戸子・吉田・口永良部の8か村は上屋久村,船行・安房・栗生・麦生・中間・原・平内・尾之間・小島・湯泊の10か村は下屋久村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463550
最終更新日:2009-03-01




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