ケータイ辞書JLogosロゴ 弥毛原村(中世)


鹿児島県>樋脇町

鎌倉期〜南北朝期に見える地名薩摩国入来【いりき】院のうち塔原に属す文永7年10月15日の渋谷重経・公重連署和与状案に「やはすの(矢筈野)・やけはら(弥毛原)のさかいをきる,やはすのくまののにおきてハ,いかういちゐの(市比野)なり」とあり,塔之原の寺尾(渋谷)重経と市比野の入来院(渋谷)公重の間で両村の境界が決められ,「矢筈野【やはずの】」は市比野村,「弥毛原」は塔之原村に属することとなった(入来文書)その後,重経は出家して,定仏と号し,建治3年9月13日には譲状を書き,当地を一期分として後家に与えている(同前)ところで,当地は薩摩の在庁で塔原の寄田(伴)氏と同族の武光氏の所領でもあり,応長2年6月17日の武光法忍(師兼)譲状によれば,塔原の南部村と弥毛原村が惣領の経兼に一期分として譲られ,その後は三郎太郎兼長が知行することになっていた(同前)しかし,当時の状況から考えて,当地の支配は寺尾氏のため,事実上,不可能であったと推測される南北朝期の延文5年8月9日の渋谷(寺尾)妙勝(重名)譲状案には,「一所 やけはらの二郎太郎かさいけ,おなしきすいてん一町」と見え,重名から孫の竹鶴丸に譲られている(同前)当地は現在,その遺称地を見出すことはできないが,矢筈野や南部【なべ】との関係から推定すると,樋脇町塔之原字牟礼の丸山の南麓から北方の字鍋原に続く広大な火山灰台地に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463552
最終更新日:2009-03-01




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