ケータイ辞書JLogosロゴ 山門院(中世)


鹿児島県>高尾野町

鎌倉期〜室町期に見える院名薩摩国のうち「和名抄」薩摩国出水【いずみ】郡山内【やまうち】郷が荘園化したもの建久4年9月4日付で国秀息男平秀忠に当院所帯職を安堵した「薩摩国山門院住人」宛将軍家政所下文が初見(入来本田氏文書/旧記雑録)次いで同8年の薩摩国図田帳に「山門院二百町内〈嶋津同庄寄郡〉」とある図田帳の当院200町は安楽寺領老松荘24町4反と地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)の支配する公領175町6反とに大別されており,さらに公領は「光則百三十三町六段 院司秀忠」「弁済使分二十七町 名主嶋津御庄領家沙汰」「高橋十五町 本名主是兼入道死去後」とに三分されている鎌倉初期には島津忠久が薩隅日三州の守護職を得て院内木牟礼に入り,家臣本田某をして当院の経営を始めたものらしい文永2年6月2日付の島津氏二代忠時から嫡子久経への譲状には「さつまのくにすこのしき,おなしきくにのうち,さつまのこほりいちくのゐん・やまとのゐん・へきのなんかう・ミやさとのかう・あくね・十二とうのしま」と見える(久経公御譜/旧記雑録)もともと山門院には在地領主郡司平氏(山門氏)がいたが,次第にその所領を失っていった正安2年6月15日付の藤原家泰(郡司平氏)売券には「ゆつりわたすさつまのくにやまとのゐんの内はりわらのむらの田畠くわうや等事」と見え,山門院の一部針原村が島津氏被官本田氏に売られている(入来本田氏文書/同前)かくして鎌倉末期には当院は西方と東方とに二分され,西方は島津氏の,東方は郡司平氏の所領となった山門院西方については,正慶2年閏2月19日付本田親兼宛島津貞久所領安堵状に「下 山門院西方内名田等事」とあるのが初見(同前)ここには手作分として「六段十 峯本 五反 平田 一段十 舎迫」,名々分として「久富六町 光成弐町 桃木田六段」が見えるその後,貞治5年3月5日付で島津師久が諸子に所領を譲与しているが,その目録には「嫡子伊久分 一,薩摩国守護職 一,山門院西方 一,薩摩郡地頭職 次男小法師分 一,薩摩国河辺郡 女子尼分 一,水田伍町 薗弐ケ所〈一期分,山門院樋渡之内〉後家鶴田女房分 一,山門院西方惣領門六内山下門二,同院内市来崎次郎太郎入道跡,同彦五郎跡并多田入道跡 一,山門院内当知行分給分矣 一,薩摩郡光富名内鳥取入道代官分,何も後家一期之後者,可惣領知行者也」とあり,守護島津氏の山門院での本拠が西方にあったことがわかる(伊久譜/同前)その他,応安元年10月15日には島津師久(道貞)が「山門院西方桍田(袴田)之内水田参段」を諏訪大明神へ寄進しており(藤野氏文書/同前),応仁2年11月15日には沙弥仁道仙が「山門院西方西牟田之内佐事田一段三百五十地」を感応寺へ寄進している(旧記雑録)一方,山門院東方については,康永4年8月3日付の郡司平家忠から同族市来崎彦七郎への譲状に「さつまの国山門院東方高小野里田地の事」とあるのが初見その後,応永15年1月11日付の嫡子市来崎秀幸宛沙弥性慶譲状に「薩摩国山門院之内東方,一所小山田八反 一所太郎丸作三反 一所小長田五反 一所坂本八反 一所今新改三反 同河原田三反 御堂薗一ケ所」とあり,文安6年の持家の家教宛譲状には「薩摩国山門院三百五十丁,此内先々高小野之分亀太郎丸ニゆつりあたふ所也」とある(市来崎文書/旧記雑録)その他,山門院内として散見される地名の比定によれば,山門院西方は野田川を東の境に,西は折口川で莫禰院に境する,現在の野田町域と阿久根市多田・折口・脇本地区を含む地域,東方は野田川を境として現在の高尾野町を主に,出水市の庄・六月田から,下鯖淵・武本の一部にも及ぶ地域と考えられる南北朝期,武家方に属してようやくこの地を死守した島津氏や山門氏一族は,室町期に入って薩摩国を領した総州家と大隅国を領した奥州家との間に内紛が起こり,山門院に追いつめられた総州家側は木牟礼城を追われ,やがて総州家は亡びる応永29年のことであり,総州家討滅の功により,山門院の地は島津忠国から相良実長に贈られている山門院の相良氏領有は約20年と思われるが,まもなく島津氏に復し,享徳2年には島津忠国の弟用久に山門院・莫禰院を含む出水郡が与えられているそして用久の興した薩州家は7代140年続いたが,薩州家7代島津忠辰の朝鮮役の不首尾により改易され,文禄2年豊臣秀吉の直轄領となったこの時期にも,この地方はなお山門院の通称で呼ばれていたようであるが,やがて近世には単に野田のみを山門院と呼ぶことが多くなった出水郡が慶長4年豊臣秀吉直轄領から鹿児島藩領に復帰した前後の野田の境域を示す古記録には「薩陽出水郡山門院野田と申は往古は三百五十町余之所にて,名数多田村折口村西目村上名村下名村当所之内にて有之,境は阿久根は三ケ野より央槌迄,高尾野・出水之方富士より森杉之元迄,板目川より洗切迄,北は蕨島・黒浜・脇本迄野田之内にて有之候得共,当分段々出水・阿久根へ被召附候」とある(出水風土記)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463599
最終更新日:2009-03-01




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