ケータイ辞書JLogosロゴ 横川院(中世)


鹿児島県>横川町

 平安末期〜戦国期に見える院名。大隅国のうち。天養2年3月12日付の建部清貞宛前大隅掾建部頼清処分状に「〈桑西郷内〉横川院 皆尾村」とあるのが初見(禰寝文書)。次いで建久8年の大隅国図田帳に島津荘寄郡の1所として「横河院三十九丁五段二丈」とあり,建治2年の大隅国在庁石築地役配符にも「横川院卅九丁五段二丈〈三丈九尺五寸四分〉」と見える(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。南北朝期初頭,建武2年10月7日には島津貞久が太政官符をもって当院を含む「中宮職領管大隅国寄郡内」所々の預所職に補任されている(藤野氏文書/旧記雑録)。翌建武3年2月には当院39町余は安楽寺天満宮に寄進され(旧記/旧記雑録),観応元年6月24日の上書のある島津荘寄郡田数注文には「一 寺社御寄附分 但道鑑拝領九ケ所之内」として「横河院 三十九町五段二丈〈安楽寺天満宮御寄附建武三年二月日〉」とある(道鑑公御譜/旧記雑録)。その後,貞治2年4月10日には道鑑(貞久)から氏久に譲与されているが(島津家文書1/大日古),室町期には豊州家島津氏に伝えられており,文明6年の行脚僧雑録には「一 豊州之御持城,帖佐,平山,高城,上之山,平瀬,蒲生,北村,溝辺,横河,東郷」とされている(旧記雑録)。「文明記」によれば,文明17年祁答院氏の叛によって同2月19日「加治木右衛門佐自横川至祁答院,発出軍勢将引退,祁答院衆付送而為合戦,加治木三軍敗」とあり(同前),また翌18年10月5日島津忠昌は本田氏にあてて,「横河之敵陣後巻共依奔走,輙退散候,可然候,已後も尚々彼境之事,憑入候」と申し送っている(忠昌公御譜/旧記雑録)。下って,永禄5年には「樺山玄佐自記」「箕輪伊賀自記」などによると,島津氏の三州統一の過程で,島津氏に反した伊東義祐に与する北原伊勢守兼正とその子新助(介)が当地の横川城にたてこもっている。島津方は6月3日に総攻撃を行い,北原氏は敗れ,兼正をはじめ,多くの者が自刃したが,北原兼親のように求磨に逃れ相良氏を頼る者もいた。横川城には島津氏に帰服した菱刈隆秋が同年9月に入城している(旧記雑録)。しかし,菱刈氏による支配は長く続かず,永禄10年に城代菱刈中務らの島津方の攻撃により落城し隆秋は大口に退いた。後に当地は樺山氏に与えられた(樺山玄佐自記・樺山善久入道玄佐譜/旧記雑録)。天正年間の「上井覚兼日記」にも当地が散見する。なお,天正8年3月の川田橋対馬守宛の島津氏老臣連署坪付には「坪付 隅州横河院 浮免 一段 柿木門之内 山口田」と見える(神田橋氏文書/旧記雑録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463645
最終更新日:2009-03-01




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