ケータイ辞書JLogosロゴ 横川郷(近世)


鹿児島県>横川町

 江戸期〜明治22年の郷名。大隅国桑原郡のうち。鹿児島藩直轄領,外城の1つ。上之(上)・中之(中)・下之(下)の3か村からなる。地頭仮屋は北東部の中之村に置かれ,周囲に郷士が集住して麓が形成され,付近に野町があった。各村ごとに郷士の中から庄屋が任命された。庄屋役は一詰(任期)8か年。享保の「大御支配次第帳」では,衆中113人。「薩藩政要録」では,地頭松崎善助,郷士惣人数577,郷士人体188,所惣高4,476石余,郷士高725石余,寺高2石,用夫323,野町用夫61。「要用集」では,地頭鎌田哲二郎,郷士総人数571,郷士人体196,所総高4,285石余,郷士高800石余,寺高2石,用夫279,野町用夫65。加治木と大口を結ぶ東目街道が南北に縦断しており,古来より交通・流通の中継点の役割を担っている。北西部国見岳南麓に位置する山ケ野金山は,西接する曽木郷永野村(同村は伊佐郡に属す)まで含み,寛永17年発見,試掘は永野金山に始まる。翌年から藩の主導のもと,北郷久加を金山総奉行として採掘に及ぶが,寛永の全国的な飢饉により,同19年に採掘停止。その後,藩財政窮乏とともに明暦2年に再開,万治2年には年間489貫余を産出する。奉行役所は山ケ野・永野の2か所に置かれ(のち山ケ野1か所),寛文7年幕府巡見使への答申書によれば,両山合わせて3,871人・1,324軒が金山採掘に関与していた。享保以降は衰退し,のち明治10年フランス人鉱山技師ペー・オジェーを雇用して技術革新を計画するが,資金難で遂行できず。東部の黒葛【つづら】原は,江戸中期の開田という(横川町郷土誌)。物産としては,金を始めとする鉱石類,枳殻・紫根・野猪など(三国名勝図会)。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同5年鹿児島県に所属。同年姶良【あいら】郡加治木郡治所の管轄下となる。のち,第1支庁,第57大区を経て,同12年からは加治木郡役所の管轄下となる。同17年連合戸長役場が中之村に置かれる。「地理纂考」によれば,高5,110石,戸数821・人口3,793(士族1,354・卒14・平民2,425)。明治10年西南戦争の際,当郷郷士は1〜5番隊計162名が従軍した。また,横川は5〜6月に薩軍の本営が置かれ,7月1日山之口付近,8月30〜31日二石田・深川方面で戦闘があった。明治4年中之村麓に郷校創立,郷士子弟を中心に教育が始まる。のち,同9年横川小学校,同20年横川高等尋常小学校と改称。明治13年中ノ村に郵便取扱所設置。同14年加治木警察署横川分署設置。同21年中ノ村に鹿児島治安裁判所横川出張所を開設。同22年当郷3か村は横川村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463646
最終更新日:2009-03-01




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