ケータイ辞書JLogosロゴ 吉田院(中世)


鹿児島県>吉田町

 平安末期〜戦国期に見える院名。大隅国のうち。治暦5年正月29日付の藤原頼光所領配分帳案に「一,弟頼重宛給 吉田院所領田畠者,在坪付帳」と見え,吉田院田畠の一部が頼光から弟頼重に宛給されている(禰寝文書)。その後,建久8年の大隅国図田帳によれば,「吉田院十八丁二段」は,経講田1町をのぞく17町2反がすべて正八幡宮領であって,6町2反の不輸田と11町の応輸田とから成り,本家は石清水八幡宮であった。また,建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符では,吉田院20町9反のうち貢進田1町を除く19町9反は,「本名十丁三反〈一丈三寸〉正宮御供所清弘(吉田氏)領」「中納四丁八段〈四尺八寸〉長太夫幸道(中納氏)領」「宮浦四丁八段〈四尺八寸〉二郎太夫清持(吉田氏)領」と大別されており,息長姓吉田氏一族に分領されている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録・鎌遺12461)。中納の弁済使兼名主であった幸道は祖父の代に正八幡宮弥勒寺別当を勤め,中納を領し,かつこれを家号としている(桑幡公秀氏所蔵系図)。中納は現在の吉田町本城に比定され,したがって吉田院は,現在の吉田町南部3大字(本名・本城・宮之浦)の範囲であって,東・西佐多浦を含まない。この2大字については,蒲生氏の一族が「沙汰浦ト号シ」(蒲生氏系図)ているところから,蒲生氏の所領で蒲生院のうちであったと推定される。南北朝期には,文和年間のものと推定される大隅国直冬方交名注文(氏久公御譜/旧記雑録)に,「吉田左近蔵人清忠〈但清忠参于御方云々〉」とあるように,吉田氏は他の正八幡宮神官系の諸氏とともに反島津氏の立場にあったが,のちにいちはやく島津氏に通じ,室町期初頭には島津久豊に従って戦功があった。しかし,下って永正14年,吉田位清は東佐多浦松尾城に拠って島津氏に反し,島津忠治の攻囲で松尾城は落城,位清は出奔し,吉田院は吉田氏の手より離れた(雲遊雑記伝)。永正14年3月21日には伊地知重貞等(島津忠隆老臣)連署坪付で,大隅国吉田院のうち宮浦名・本城名に散在の地1町余を萩野某に給しているが,戦国期には,吉田院は島津氏の掌握下におかれ,隣接する蒲生氏への島津軍攻撃の際(弘治年間)には,吉田氏は島津貴久に軍労を尽くしている(山元氏日記)。その後文禄4年6月29日付豊臣秀吉朱印知行方目録には「さつまかこ嶋郡の内 よし田村」とあり,7,789石余の高となっている(島津家文書)。これは近世の高に比較して,本城・本名・宮之浦の旧吉田院のほかに,東佐多浦・西佐多浦(旧蒲生院の一部)を加えたものであろう。なお,当地はもと桑原郡のうちで,それが鹿児島郡のうちとなったのは天正15年のこととされる(三国名勝図会など)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463666
最終更新日:2009-03-01




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