ケータイ辞書JLogosロゴ 米永(中世)


鹿児島県>栗野町

 鎌倉期に見える地名。大隅国栗野院のうち。建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符に栗野院南里40町(定田38町5反・貢進田1町5反)のうちとして「米永十六丁七段半〈一丈六尺七寸五分〉郡司貞高」と見える(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。郡司貞高は栗野院郡司守綱の一族である。当地には栗野の郷社勝栗神社がある。勝栗神社については正しくは正若宮八幡社であり,古代から栗野一帯における政治・経済・文化の主柱となっていた。古文書や碑文などには「正若宮」と見え,勝栗神社と呼ぶようになったのは明治になってからで,島津義弘が文禄の役に出陣のとき勝栗の里と詠じたという古事にかかわりがあるとも伝えられる。社伝によると国分八幡はその神領の四方に正若宮を建立,東を恒吉郷投谷八幡,西を蒲生八幡,南を鹿児島荒田八幡,北を栗野八幡とし,境界のしるしにしたと伝え,正若宮の創建は正八幡宮と同時期の建立は考えられないまでも,9世紀から10世紀の荘園成立期に神領護持のために勧請されたものであろう。なお,元徳3年9月22日,預所光然が正宮田所検校に「栗野若宮政所職」を申し付けており,文和3年8月13日の上井富福丸解謝御馬毛付日記には「一,四所若宮政所祭馬事,姶良・栗野・蒲生之分三疋者,定使等請取之」と見える(国分宮内沢氏文書/旧記雑録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463689
最終更新日:2009-03-01




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