ケータイ辞書JLogosロゴ 脇元村(近世)


鹿児島県>姶良町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国始羅郡のうち。はじめ帖佐郷,元文3年からは重富郷に属す。村高は,寛文4年の「郡村高辻帳」では1,218石余,安永7年の「三州御治世要覧」では286石余,「天保郷帳」では1,218石余,「旧高旧領」では158石余。明治14年の「姶良桑原囎唹郡役所管内一覧」によれば,田畑反別124町歩余,戸数331・人口1,332,うち士族64戸・228人,平民267戸・1,104人。江戸期には国界を越えて,薩摩国の一部も含まれ,島津歳久を祀る曹洞宗滝水山心岳寺があった(現鹿児島市)。江戸期には本浦の脇元浦があり(要用集),国分筋の街道鹿児島〜重富間は白銀坂の難所があったため早くから海路の交通が発達し,その発着港として栄えた。延享4年に六斎市が許可され(列朝制度),浦町ともなった。慶応3年の「切支丹宗門改印形帳」による家部数113。八坂神社と天御中主神社(妙見宮)があり,崇敬を集めたという。水田20haの干拓地があるが,干拓年代は不明。白銀山にある布引滝は轟川となって,渡瀬川に合流し脇元港に入る。明治22年重富村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463710
最終更新日:2009-03-01




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