ケータイ辞書JLogosロゴ 阿嘉村(近世)


沖縄県>仲里村

 王府時代〜明治41年の村名。久米方,はじめ久米島中城【くめじまなかぐすく】間切,康煕6年(1667)からは仲里間切のうち。「高究帳」では久米島中城間切赤村と見え,高頭54石余うち田40石余・畑14石余。「由来記」に村名は見えないが阿嘉掟がおり,「旧記」には仲里間切阿嘉村と記す。村の創始は,「久米仲里旧記」安嘉村立始之事によれば,仲里城城下に住む人が,阿嘉比屋家所に移り住んで阿嘉村の草分けになったという。阿嘉比屋家所は,阿嘉殿内という根所のあったところといわれる(沖縄久米島資料篇)。はじめ阿嘉村の役人は宇江城【うえぐすく】村をも管轄していたが,人口が1,000人余りにもなって下知に不便となり,乾隆8年(1743)宇江城村に掟・目差などを置いた(公孫姓家譜/沖縄久米島資料篇)。雍正年間(1723〜35)初期,宇座原から田へ用水を開いた(同前)。阿嘉村の田の用水として宇座山に堤を築いた乾隆35年(1770)の宇座池の石碑が残る(県文化財調査報告書69)。その後も18世紀から19世紀にかけて,慶味原から阿嘉村・宇江城村・比屋定【ひやじよう】村へ至る道辺の田への用水,真謝佐於宇井の用水工事などが行われた(球陽尚穆王26年条,尚泰王15年条・17年条)。19世紀初めには疲弊したが,道光11年(1831)阿嘉掟・同目差の下知により,未進分を上納した(球陽尚灝王28年条)。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。同39年旧暦10月の台風の際,東北に遮るもののない村は,大風を真正面から受け,波浪によって大半がさらわれた。この台風により久米島東北岸の村々は大被害を被り,軽石や深海魚までが打ち上げられたといわれる。農作物はすべて枯れ,冬に向かっていたためイモカズラも芽を出さず,翌年夏まで飢饉が続いたといわれる。この台風は,十月台風と呼ばれ,後々まで語り継がれた。この時被災した20戸余りは丘陵地に移転し,現在の上阿嘉集落となり,残った集落は下阿嘉と称した。戸数・人口は,明治13年34・134(男77・女57),同36年32・160(男99・女61)うち士族2・12。明治36年の民有地総反別105町余うち田7町余・畑17町余・宅地2町余・山林27町余・原野50町余(県史20)。同41年仲里村の字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7463726
最終更新日:2009-03-01




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